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[コメント] ヒューゴの不思議な発明(2011/米)

「蒸気」「雪」さらには「灰」などの―宙空に座を占め、個々の体積がきわめて微小で、動的な―視覚細部を絶えず無数に画面内に配置することで、審美性に配慮しながら立体感の増強に努めている。捏造された奥行きを掘り進むかのごときカメラのZ軸移動もこれまでの3D映画の成果に正しく依拠するものだ。
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**ネタバレ注意**
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さて、この映画において最も特権的に扱われ、夥しい登場回数を誇る運動とは何か。あるいは次のように問うこともできる。この物語の独自性にとってとりわけ重要な道具立てである「機械人形」「時計」「列車」そして「映画」の共通項とは何か。答えは「回転」である。『ヒューゴの不思議な発明』は取りも直さず、まずは回転の映画であると云うことができる。

ペンを持った機械人形は回転する「歯車」の組み合わせによって精妙に描画・署名する。同じく大小無数の歯車で構成された駅の大時計は円形の文字盤上を長短の「針」が回転することで時刻を指し示す。列車は云うまでもなく「車輪」の回転によって走行する。列車を登場させた目的が『ラ・シオタ駅への列車の到着』を3Dとして甦らせることだけにあったのならば、車輪のアップカットはむしろ不要なイメージのはずだろう。映画のフィルムは(その形状的な必然として)幾重にも環状に巻いた上で回転させなければ映写できない。

それではどうしてマーティン・スコセッシはこの作品を撮るにあたって、まるでこれまで彼自身が描いてきた偏執的な主人公のように回転に取り憑かれてしまったのだろうか。最も簡潔に答えるならば「回転は映画的な運動だから」となるだろう。なぜ回転が映画的であるかについてはすでに別の稿で述べてあるはずなのでここでは繰り返さないが、ともかく私の知る限り、スコセッシの演出がこれほどまでに「映画的」であることに汲々とした作品はほかにない。

おそらく、ディジタル3Dとして撮影/映写された動画像が果たして「映画」でありえるのか、という問いを誰よりも切実に受け止めていたのはスコセッシその人だったのではないか。ディジタル3D映像はフィルムの透過光ではない。質量を持たぬ情報の再生にすぎない。ゆえに回転運動とも無縁である。そんなものが果たして「映画」でありえるのだろうか――そのような大多数の観客にとってはどうでもよい(!)葛藤を無視できぬ愚直なスコセッシは、ジョルジュ・メリエスを事実上の主人公に据え、映画そのものについての物語を語り、さまざまな映画史上のイメージを導入し(たとえば、死体の足裏の大写しは『ハリーの災難』だ)、そしてさらに映画的運動であるところの回転をもって過剰に画面を飾り立てる。したがってそれらは彼にとって、過去作のどれにもまして「これは映画である!」と声高に叫ぶための手続きにほかならない。

(評価:★4)

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