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[コメント] ビルマの竪琴(総集編)(1956/日)

「模倣」すなわち「差異の無化を目指すことと、それにもかかわらず/それゆえに無化不能な差異が顕わになること」の強靭な曖昧さ。悲痛な滑稽さ。
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**ネタバレ注意**
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まず驚くのは、安井昌二演じる水島上等兵がただ僧衣を着ることを以って「日本兵」から「ビルマ僧」に変貌してしまうという筋立ての、ある種の滑稽さだ。むろん実際においても(望んでか望まぬでかは別にして)現地人に「なる」ことを選択した未帰還兵は存在するのだから、その滑稽さとは「現実」の、「戦争」の、滑稽さだと云うべきなのかもしれない。だが、とりあえず「現実」とは切り離して考えてみても、北林谷栄は堂々とビルマ人の物売り婆さんを演じてしまうし、安井は冒頭から「ロンジ」を纏ってビルマ人に扮し、さらにそれすらも奪われて「バナナの皮」を腰巻にするなどという「衣裳が変わる人」として提示されているのだから、日本兵が「僧衣」を着ること、すなわち「衣裳」(見かけ)の模倣を通じて本当にビルマ僧になってしまうという事態の滑稽さは、悲痛な滑稽さとしてこの作品世界においてはじゅうぶんに正当化されている。

模倣、と今云ったが、確かにこれは「模倣」のモチーフが頻出する映画だ。安井はビルマ僧の格好および行為を模倣する。ビルマ人少年は安井を模倣して竪琴を奏でる。インコは三國連太郎の言葉を模倣し反復する。合唱もまた模倣の一形態だと云うことができるだろう。そもそも安井が携帯し、私たちが「ビルマの竪琴」と呼んでいるあの竪琴すら、実際はナレーションが言明するように「ビルマの竪琴を真似て作った独特の竪琴」なのだ。

「模倣」は差異の無化、すなわち同一化を目指す行為だが、模倣はあくまでも模倣であって完全な同一化には至らない。そこには無化しきれない差異が顕わとなっているはずだ。そして、この映画においてはそのことこそが感動的なのだ。英軍兵士の“Home, Sweet Home”と日本兵の「埴生の宿」が重なるシーンの感動、それはメロディの同一性が言葉の差異を際立たせ、しかしながらその言葉の差異が再度メロディの同一性によって乗り越えられるという聴覚的な二重性の感動だ。

また、同一性と差異が同時的に顕在化するがゆえに、模倣には常にある種の曖昧さがつきまとう。流暢にビルマ語を操り、容貌もビルマ人にそっくりだという安井(「日本語が分かる顔じゃない」)が日本人であるかビルマ人であるかを弁別するにはもはや衣裳を以ってするしかないのだが、僧衣を纏った安井は果たして日本人と云うべきなのかビルマ人と云うべきなのか。さらに安井は結末部において「正式に」僧侶になり、ビルマに留まることを決意する。ここにおいてはもはや安井を「日本人」と呼ぶことは難しいのではないかとも思われるのだが、しかし安井がそうするのは、ビルマの地に散らばる同胞=日本兵の骸を弔うという日本人であるがゆえの動機のためなのだ。この曖昧さは、現代の私たちに「なぜビルマ僧になるということまでしなければならないのか。『日本人』でありつづけたまま弔うこともできるのではないか」という戸惑いを抱かせる論理的な面での曖昧さでもあるが、この映画は安井の道行きを丹念に描くことで、その曖昧さに論理を超えた強靭さを与えている。

どうしてこの物語はこのように展開し、このような結末を迎えねばならないのか分からない。だがこれ以外の展開も結末もありえないのだ。強靭な曖昧さは私たちにそう思わせるだろう。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)寒山拾得[*] KEI[*]

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