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[コメント] コクーン(1985/米)

詰めの甘さもあるが、映画性はしっかりと刻み込まれている。微笑ましいダンスシーン。深夜ジャック・ギルフォードが妻を抱えてプールに向かうカットの絶望的な美しさ。抜け目なくワンカット忍ばせられた船の「並走」。宇宙船の登場に伴い一帯を覆いだす霧(黒雲)のダイナミズム。老人/人間の醜悪さを描いているのも誠実だ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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終盤の展開が感動的であったとするならば、それは「永遠の旅立ち」に対して老人たちがいっさい躊躇いを見せないからだ。仮に「私たち(日本人)とアメリカ人とでは死生観が異なる」という私にはいささか根拠薄弱と思える仮定を認めたとしても、あんなにも可愛らしい孫が必死に追いかけてきたにもかかわらずまったく逡巡もせずに「旅立ち」を断行するというのは「おかしい」。だが、「おかしい」からこそ感動的なのだ。

その「おかしさ」についてもう少し詳しく見てみよう。終盤までこれは徹底して「元に戻る(/戻す)」映画として語られている。「老人たちの若返り」と「宇宙人による仲間の救出」という物語の軸からしてそうであるし、ターニー・ウェルチが衣服と皮膚を脱ぎ捨てるというこの映画で最も印象的なシーンのひとつも、彼女が地球人の姿から「本来のそれに戻る」さまを描いたものにほかならない。あるいはドン・アメチーと妻の「復縁」も。そして決定的なのは、老人たちと宇宙人たちが真に心を通わせる契機となる出来事があろうことか「苦労して引き揚げた『繭』を海中に戻す」という画面的にも物語的にも映えがたい作業であるという点だ。なぜ彼らは「画面的にも物語的にも映えがたい作業」をしなければならないのか、それはこれが「元に戻る(/戻す)」映画だからである。

しかし、終盤において彼らは「元に戻る」という選択肢などはじめから持っていないかのごとく躊躇いもなしに「一方的に」旅立ってしまう。この「裏切り」が前述の「おかしさ」の映画構造上の正体であり、その一点の曇りもない、馬鹿馬鹿しいまでの、有無を云わさぬ、決定的な裏切りぶりが感動的なのだ(船が宇宙船に吸い込まれていくさまは垂直的でした。重力に逆らったこの垂直上昇運動は、端的に「戻ること」と対立しています)。

ところで、ここで中盤においても「元に戻らない」シーンがあったことを思い出してみよう。それはつまり繭の中の宇宙人とギルフォードの妻ハータ・ウェアの「死」のシーンだ。楽天的とも云いうる筆致で反復的に「元に戻る」ことが描かれた映画、そこにおける「死」=「元に戻らない」という容赦のない不可逆性。それがブライアン・デネヒーを涙させ、私たちの胸を打ったのではなかっただろうか。だからこれは大部分において逆説的に、「死」と「旅立ち」という二点において直接的に不可逆性を描いた映画だと云えるだろう。したがってこの映画を支配しているのはやはりセンチメンタリズムだ。なぜ老人たちに「往年の名優たち」がキャスティングされねばならなかったのか。それは断じて演技力の問題でも役柄との適性の問題でもない。「往年の名優たち」だけがその全身をもって映画のセンチメンタリズムを担うことができるからだ。

(もちろん、あからさまに死の暗喩としても読める「旅」の目的地がすなわち「元」なのだ、要するにこれは一貫して「元に戻る」映画なのだ、とする解釈もありうるでしょう)。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)煽尼采[*]

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