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[コメント] 愛しのローズマリー(2001/独=米)

心の美しい人がいたとする。「映画」はそれをどのように表現できるのか。大きく括れば「観客の視聴覚に訴える」しかほかに方法はない。内面と外見の美醜は明確に連関を持つ。そこに「映画」の原理的な残酷さ・軽薄さ・いかがわしさが、そして感動さえもがある。『愛しのローズマリー』はそれに自覚的だ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







もっともここで「外見」とは、私の映画体験から導き出す限りにおいては「顔面の造作」や「体型」というよりも、とりわけ「表情」である。少数の例外を別として、画面上に生きる人物たちの表情は人格と等号で結ばれている。あるいはもっと厳密に云えば、映画の作中人物における「内面」とは観客が彼/彼女の特に表情から読み取る限りにおいて仮定されうる概念にすぎず、決して実在はしない(内面という言葉の扱いは危険です。現実の私たちだってそんなものを持っているのか、はなはだ怪しいではありませんか)。だからこそプロフェッショナルの俳優は表情筋の操作術を学ぶだろう。

顔面に大火傷を負った少女が、また結末部の壮行パーティでジャック・ブラックと向かい合う肥満体のグウィネス・パルトロウが美しく見えたとして、だがそれは撮影のマジックでも何でもない。端的に彼女たちの表情が美しかっただけである。そしてそれはどういうわけか観客に感動をもたらす、かもしれない。ファレリーはそんな素朴な映画の詐術を信じている。私もまたそれに騙されるだろう。

ファレリーの喜劇が私たちに居心地の悪さを強いずにおれないのは、娯楽映画に対する彼らの信念ゆえにちがいない。娯楽映画は観客のために撮られる。しかし、それは、娯楽映画が観客の奴隷であることを意味しない。

(評価:★4)

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