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[コメント] カッコーの巣の上で(1975/米)

正統派を避けながらも「逃げた感じ」が無いどころか原点を超えている?
Bunge

多くのアメリカンニューシネマは発展途上国はおろか、自国のマイノリティにすら目もむけず、我こそが世界一の不幸者だと言いたげな平凡な若者に支持されている――もしくは作られている。

大学における反体制運動とアフリカで餓死する子供たちの存在は彼らにとって繋がっているつもりで実のところ宇宙よりも遠い別次元の事柄であり、目を瞑り自己欺瞞を構築しなければ生活基盤そのものが揺らいでしまう。

身体的障害者やセクシャルマイノリティを題材にすれば様々な自由を奪われてしまうのは目に見えている。前者は重すぎるし、後者は独自のコミュニティを利用すれば極めて深刻とも言えない問題だからそもそも切実に描く必要性に欠ける。精神病患者というのは頃合いの素材である。片目を瞑りつつも際どいレベルで「直視可能」だから。アフリカの映像はいまだ「おとぎ話」の域を出ていないのだ。

セクシャルマイノリティ街は存在するが、障害者街は存在しない。心の一つもわかりあえない彼らは極度の孤独からますます病んでしまう。だからアメリカンニューシネマの軸である「到達点」が有りがちな青い夢であったり、反体制的行動に込められた空想的意義ではなく、切実かつリアルな・・・それこそ中高年でも共感出来るような永遠不滅の名作が生まれたのだ。

重度に病んだ人間の多くはマイノリティだ。マイノリティの多くは集団に溶け込めない。社会に、会社に、学校に溶け込めない。

そこには美人女教師のような存在がいる。体罰がある。規律がある。大人しくしていれば多少理不尽な扱いを受けるだけ。スリルを楽しめるだけの余地はあるし嘘なんてつかなくて良いところ。重い精神病が治ることは滅多に無いから、永遠に退学になることはないんだ・・・彼をのぞいて。特に聡明とは言い難い彼が詐病を続けられるはずがない。一握りしかいない大切な仲間を騙し、罪を背負い続けることが出来るはずがない。いつの日かおとずれる破綻を悟った彼は終わらさなければいけなかった。日本は恥の文化であり、クリスチャンは罪の文化なのだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)Orpheus ぽんしゅう[*] けにろん[*]

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