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[コメント] ロボコップ(1987/米)

懐かしくなって久々に観たらここまで毒々しかったかと唖然。陽気な退廃と残虐性で80年代アメリカの末期症状を刻印する。そして、怒りと疑問こそ人間性の出発点というあられもない洞察。露悪のヘドロの中にダイヤの原石が埋まっている。某サブスクに落ちてるから、さあみんなも「1ドルで楽しむべ!」。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







優れた戯画だと思うけど、今観ると「殺してでも連行する」で済む(済んだと錯覚して終わったことにできる)時代は、今やはるか昔に終わったのだ、という感慨を覚えてしまう。良くも悪くも、80年代的で素朴だ。どぎついが、あっけらかんとしている。ただそれは何の考えもなしになされた演出ではないだろう。優れた時代の刻印だと思う。

私は昔から、社会的な属性を失ったキャラクターが集中砲火を受けるシーンで涙が出てしまうのだが、この映画の思い出がその感性の土台になっていたのだと気付かされた(多分『フランケンシュタイン』を観たら私は泣くだろうが、不勉強にして、というか心乱されるのが怖くて観ていない。最近ではブロムカンプの作品が思い当たる)。主人公は「法的には死体」であって、「人権はない」。人間ではなく人権はないので、殺さないという選択肢もない。人間性は必要ないので記憶は抹消され、「選択」は企業が規定する倫理観に基づいて「プログラム」されている。何という身も蓋もない設定だろう。細胞維持ペーストを食わせておけばいい、とオムニ社の技術者が説明するシーンで、これベビーフードやん、とニヤついた役員がベロベロと指をしゃぶるシーンなど、その毒々しさで笑いと吐き気が同時に誘われる。退行して暴走する企業倫理はここまでするのだ。そして「プログラム」から外れようとした時、彼はロボットとしての属性も失って排除の暴力を受けるわけだが、そこに抗うように、壊れたヘルメットの亀裂から見せる「目」が印象的だ。「なぜ?」と問うことが人間性のはじまりで(このシーンの彼はそれこそ赤ん坊のようなものだ)、しかしまだその湧き上がる感情の意味を理解できていない、そんな未熟な光と警官隊の発砲のマズルフラッシュの対比。人間でも、ロボットでもない、何にも属さない彼、歪んだ社会のエラーとしての彼が皮肉にも最も人間らしい人間性を見出すことになる。このシーンは本当に好きだ。

「私、死ぬわ」「生き返るさ、私のように」は非常に際どい台詞だが、無我のうちに殺人マシーンにされること、歯止めの効かない企業の暴走への嘆きだけではなく、人間性の芽を信頼するシークエンスを前提としているからギリギリ名台詞たりえている。しかしその人間性も結局不完全なものであり、そんな危うい歪さが、この作品の魅力となっていると思う(中盤は人間性の不在故に殺し、終盤は人間性の故に殺している)。

脂ぎって濃い顔面の悪役達がいい。クラレンス役はマイケル・アイアンサイドだと思っていたのだが、記憶違いだった。眼鏡の禿げでとてもデトロイト黒社会のボスには見えないレベルで冴えないのだが、こういう奴が一番危険、という説得力はある。悪声がいい。手下の一人にレイ・ワイズピーター・ウェラーが右手を吹き飛ばされて苦痛のあまり声も出ず呆けたような顔でよろよろと立ち上がるシーンは今見てもやはりトラウマもの。

この作品が最後に地上波ゴールデンタイムで放送されてから、もう二十年が経過するようだ。『マルサの女』でも似たような感想を書いているのだが、こういういかがわしく強烈な映画体験って、今の子供はどういう機会にするんだろう。サブスクでこっそり観たりするのだろうか。少なくともウチの子供達はまだしていない。別に積極的に勧める代物でもないんだが、何だか寂しいのである。

(評価:★4)

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