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[コメント] 秋立ちぬ(1960/日)

ナルセの寡黙な人となりを想うにつけ、ヤルセナキオの男女関係はある種ファンサービスで、本当に描きたかったのは本作なんじゃないのかなと思う。同じ絶望を描いてもラース・フォン・トリアーもハケネもこの渋味には決して至るまい(含『愛と希望の街』のネタバレ)。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
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着々と崩壊に至る諸行無常のナルセ世界子供版。子供使いは『おかあさん』や『銀座化粧』が思い出されるが、本作は転結を略してこれらよりハードだ。放り出す収束が79分の中編に相応しい。ナルセ戦後作では40年代の『不良少女』(58分)、『俺もお前も』(70分)に次いで短い(オムニバスを除く)。短尺は『悪い奴ほどよく眠る』との併映という事情からだろう。この条件をこの際大いに活用している。

凡庸なメロドラマなら大沢健三郎の、引っ越す一木双葉との別れを延々描写しただろう。これをバッサリ削除し、ただ空き家になった旅館と家財道具積み上げたトラック、菅井きんの軽薄だけで別れを示す。母の乙羽信子の遁走も、デパートでの偶然の遭遇と「中年の女って怖いんですって」なる一木の科白だけで示され、あとは噂話で漏れ聞くだけ。周りから人がいなくなるとはこういうものだろう。脚本削除屋ナルセの面目躍如なドライさだ。

そんななか本作で肉付け豊かに描かれるのは、大沢少年を可愛がる従兄の夏木陽介との関係で、八百屋の配達中に小遣い渡して遊んで来いと云ったり、怒る両親を茶化しながら大沢を庇ったりする。だから最後、一緒にカブト虫を取りに行く約束をさっさと反故にして仲間と遊びに行っちゃう展開に云いようのない虚しさが篭り、負のスパイラルが完成している。いるよなあ、ああいうタイプ。

本作はオーシマ『愛と希望の街』(59)に近似するが、別に意識されてはいないだろう。いつものナルセだ。あの先鋭化された階級対立物語は、先鋭化されないだけで本作にも仕掛けられている。一木が「本宅」の子供らと面会する件の残酷さ。一木対藤間紫のどうしようもない決裂。そしてふたりの子供はいつもの橋の上で再会し、まるでそこで死を迎える昆虫のように海へ向かう。もう家は厭だ、帰らないと繰り返していた一木は、夕暮になり帰ろうと云う。なんたる切なさ。いつものヤルセなさを子供の世界に移して殺伐の強度はマックスに至っており、家出を奨励する寺山など幼稚に見える。

ナルセの自伝的映画と云われるが、どんな具合に体験を織り込んだのか。本人は語らなかったのだろう。何度も出てくる信号機のない横断歩道は子供の危険を表象して『ひき逃げ』に至るし、八百屋の移転問題は『乱れる』を予告している。いつもの冒頭のチンドン屋は振袖の一木の橋の上での踊りで代用されており、大沢と一木のカップルもまたチンドン屋だと映画は残酷に語っている。

本作で駄目なのはマンドリンすすり泣く音楽でナルセらしからぬやり過ぎ、記憶から消去するに限る。これがなければ印象はもっとハードになっただろう。ハード過ぎると製作者として妥協したのだろうか。名前までつけて可愛がっていたカブト虫がいなくなったのに、すぐ別のカブト虫を探す展開にも違和感があるが、田舎出の大沢にとってはカブト虫などそこら中にいる存在だ、ということなのだろう。デパートの標本を求める一木を制して持っているカブト虫をあげると云う大沢は、そのカブトが標本になっても構わないと云っているかのようでこれも残酷。ナルセ作品唯一主演の乙羽が映画を新藤系に残酷にしてもいる。

いつもに増して当時の東京情報が多いのも美点で、デパートから埠頭が見えたり多摩川で泳げたりの細部はいい記録。埋立地は月島とのこと(東雲の埋立地と云われている)。「東京は溝が臭い。ご飯が食べられなくなる」という科白もリアルである。ダッコちゃん人形は傾けると片目ずつ閉じるのだったか。乾いた娘を演じて原千佐子が好印象、彼女に攻撃されまくる藤原釜足賀原夏子の夫婦の間抜けさもまた素晴らしい。

シャツ一枚で寝て西瓜喰っていた夏の時間は、田舎から届いた(カブト虫の入った)林檎箱で秋が示されて終わる。一木の遊び場だったデパートの屋上にひとり佇む大沢はもう、人生の試練を全て終えたかのようだ。ベストショットはもちろん「黄色い海」を目指すふたりの失敗に至る道行の件。とりわけ手を繋いで線路を歩むショットが余りにも儚い。

(評価:★5)

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