コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 奇跡(1955/デンマーク)

無音が支配する真空地帯でキリスト教の本質が顕現し、ふたつの奇跡が重ね合わされる。★6クラス。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画には自然な効果音というものがない。だた四つの音、風の鳴る音、動物の鳴き声、掛け時計、ストリングス、がミニマムに、極めてクレバーに使われる。そしてクライマックスでは音は消え、魂を吸い取られるような無音が支配する。

風は冒頭の白夜の早朝から、あの洗濯物をはためかせて鳴り、不安の夜にも鳴り続ける。動物は人間に呼応するように鳴く。父が仕立屋の集会を訪れるとき戸外でしきりに犬が吠える。病んだインガの治療を医師が施すと、豚が馬鹿にするかのように家畜小屋から鳴きわめく。壁時計はインガの治療の間に居間で鳴り続け、インガが死んだとき長兄が針を止め、鳴りやむ。ここからは恐ろしい無音、音響室のような全くの無音が支配する。そしてインガが復活すると、三男が再び時計を動かす。そして奇跡を彩ってストリングスが短く鳴る。

次男ヨハネンスは、父が牧師にしよう(「預言者にしたかった」!)として勉強のし過ぎで狂ったと設定されている。彼の件には狂笑がある。早朝から丘へ登り「裁きの日は近い」、唐突に居間へ現れ「部屋に死体がいる。誰も気に留めない」。「治らない、奇跡は起こらん」と嘆く父に、長男の妻インガは「祈るのです」と慰める(ビアギッデ・フェザースピルが素晴らしい)。無神論者の長男は「キルケゴールのせいですよ」と牧師に説明する。

訪問した新任牧師とヨハネンスが鉢合わせする件は優れたブラックユーモアがある。なにせ新任がイエスに挨拶するのだ。「残飯を集めよ」とマイナーな説教をする次男、貴方は誰と聞かれて「我は大工なり」。「人は死せるキリストを愛す、生けるキリストを愛さない」「我を追放する汝らに禍あれ」。あとでこの新任牧師と医師は次男について「施設に預けたら」「元に戻りますよ」と進言している。

古来、喜劇は悲劇を嗤うもので、天井的な悲劇を喜劇は地上に引きずり下ろす。本作は喜劇一般のパロディのようだ。喜劇が嗤う処をさらに嗤い、反転はもう一度反転して天上へ向かう。狂信を嗤う新任牧師と医師は、本作で嗤われている。後半にヨハネンスはこれも聖書っぽく木の枝を振り回している。

本作の主題、奇跡は、インガの蘇りであるとともに、対立宗派の和解だった。現世利益を重んじる酪農一家(グルントヴィー派)と、死後の世界を重んじる仕立屋一家たち(内的使命派)とのルター派内の宗教対立はデンマークの史実の由(パンフの小松弘氏の論考による)。日本なら日蓮宗対浄土真宗みたいなものだろう(中世近世での絵巻物や小話で坊主同士がよく喧嘩している)。三男のロミオとジュリエット(仕立屋の娘が可愛い)。同じ者同士が一番と云う父を長兄夫婦は、三男に任せろと説得している。

仕立屋夫婦は、中盤は悪だくみ者のように描かれ、上手くいけば酪農一家の土地が手に入るかもと夫婦で意地悪く笑っている。仕立屋宅での宗派の集まりへ父が押しかけても水掛け論に終わる(この集会で祈る女の上目遣いに『裁かるゝジャンヌ』の反復があった。だから映画は仕立屋の宗派も肯定しているはずだ)。

インガの死後、ヨハネンスが窓から飛び出るときにストリングスが鳴る(ヨハネ伝13-33が紙片に書置きされる。「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」)。その夜、仕立屋は「左の頬を出すべきだった」と実に唐突な改心を起こす。これが失踪したヨハネンスの業、奇跡に違いあるまい(他に何も起きないのだから)。それが証拠に、インガの葬儀の席で仕立屋が結婚を許すと伝えたとき、同じストリングスが鳴る。

だからインガの復活は宗派対立の解消のうえに起こったと解したい。セーター姿のヨハネンスが現れ、驚くべきことに長回しを続けていた映画はここで初めてカット割りを始め、再びの全く無音のなかヨハネンスは、神に返してもらおうと笑っている姪と共に祈り、インガは復活する。三男は掛け時計を再び動かす。ラストは黒画面に同じストリングスが鳴る。

母が死の床にあるとき、ヨハネンスの処に姪が来る。この件が素晴らしい。「母さんは」「天に召される」「イヤよ」「母を天に持つ子は困らない。母はいつもいてくれる」。姪を抱いたヨハネンスの揺り椅子の周りをキャメラは弧を描いて回る。パンだけを繰り返していた長回しのキャメラはここでだけ曲線的に、とても美しいラインを描く。

しかし、なぜだろう。インガが復活する収束なのに、なぜ天国に行くインガを祝福するのだろう。すると母の甦りと母の昇天に、映画は違いを見出していないのだ。映画は両宗派、現世利益と死後の世界を同時に肯定している。両者に区別はないのだ。これこそが本作の奇跡だった。

すると蘇ったインガは、生きているのか死んでいるのか、差異がない存在なのだろうか。キリストのように、三日後に神の下へ旅立つのかだろうかとも思われるが、娘の涙はそうではないと語るようにも見える。90年代始め頃にNHKで観て感動して、やっと再見できた。詰まらなかったらどうしようと思いながら観たが、圧倒的だった。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)ジェリー[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。