コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 復讐するは我にあり(1979/日)

妄想の「最後の晩餐」。あるいは合わせ鏡。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







20数年前、夜中のテレビ放映で観て以来の再鑑賞。 長いこと「緒形拳ファン必見映画」と思っていたが、改めて観たら「清川虹子ファン必見映画」だった。

この清川虹子は凄い。全ての役者が適材適所、これ以上ない!って白川和子や絵沢萠子の使い方なんだけど、中でも清川虹子は白眉。 うなぎ養殖場のシーンなんてしびれるね。「殺すなよ」って名台詞。声に出して言いたい日本語。 もっとも、清川虹子ファンなんてものがいるかどうか知らんけどな。

清川虹子は「私は恨んでいたからスッとした」と言い、三國連太郎は「恨んでる人間は殺せない」とツバを吐きかけます。 要するに、緒形拳先生演じる男は、本当に恨んでいる人間を殺せない小心者と揶揄されるのです。 では、彼が本当に恨んでいたのは誰だったのか?

彼は、父親に近い年配者ばかり躊躇なく殺します。 これは「擬似父親殺し」なのでしょう。 終いには、「擬似家族」の「(妊娠したらしい)擬似妻」と「擬似母」をも殺害します。 ちょうど実の母が死ぬのとリンクするように。

そしてその際、この映画でほぼ唯一「食卓を囲むシーン」が登場するのです。実家でも、擬似家族でも。言わば「最後の晩餐」。 実家は彼を「悪魔」として追放し、浜松の擬似家族では閉塞感漂う母娘関係に風を通す「天使」として登場するのです。 この2つの家族は、ある意味合わせ鏡なんでしょう。 母と妻。男は一人だけ。実家は父、擬似家族は自分。 父と自分の合わせ鏡。

だから殺せなかったのかもしれない。 本当に恨んでいたのは、父であると同時に自分自身だったのかもしれない。 そう思うんです。

最後に技術的なことを一つ書きますね。 姫田カメラってこんなに面白かったんだ!

余談

今村昌平曰く「緒形拳は、最初いろいろ考えたがキャラクターをうまく掴めなかった」そうだ。 血で汚れた手を水道で洗うことに違和感を感じたイマヘイが「小便で洗え」と即興で演出し、それに応えた緒形拳がその瞬間に「身体でキャラクターを掴んだ」と今村昌平は語っているそうな。

(10.05.23 渋谷シネマヴェーラにて再鑑賞)

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。