コメンテータ
ランキング
HELP

掲示版: 話題「正義の見方」 (イリューダ)

最新の5 件(全24件)
[全話題一覧]
[最初から全部見る]
Re: 僕も率直な意見を少々
muffler&silencer[消音装置]2002年02月24日12時49分更新
 みなさん、こんにちは、muffler&silencer[消音装置]ことサイマフです。
 イリューダさん、かけるさん、そして皆さんの投稿興味深く拝読しました。
 実は、かけるさんがレスをつけられる前に、僕も本スレッドに一度投稿したのですが、いろいろ考えた挙句、しばらく静観したほうがいいと判断し、削除しました。今朝、タキオンさんのレスに触発され、僕も<辛辣>なコメンテーターとして一意見を述べたいと思い立ったので、改めて投稿します。
 
 僕は本スレッドは、以前フランチェスコさんが立てられた「映画における、監督について???」という映画批評における作家性の比重についての問題と言うよりも、「コメント・評価のあり方」についての議論だと感じました。
 さらに、こうした問題を複雑にしているのは、このシネスケが、映画を評価するという「評価」の上に、さらに、コメントreview、つまりそのコメンテーター各々の「評価」を評価する、メタ的な「評価」、という二重の「評価」があるところに端を発しているのではないだろうかと思います。
 そして、一番の問題はやはり、コメンテーター各氏の表現方法、ことばの選び方、にあるのではないでしょうか。
 
 今回のかけるさんの『千と千尋の神隠し』におけるreviewについて、個人的な感想を申し上げれば、特に問題はないどころか、実に卓越した批評だと感じました。
 表現そのもの、ことばの選び方は、僕にとってはプロヴォーカティヴというか、ある意味<戦略的>だな、と感じましたし、そういう意味で、恐らく反発を感じる方もいらっしゃるだろうな、とも感じました。(もし、これが『千と千尋』という映画でなければ、高いポピュラリティーを獲得した映画でなければ、これだけの反発や反応があっただろうか、とも思います。)
 「言葉足らず」とご自身は仰ってますが、ことばそのものに、自分の思いや考えをすべて反映し尽くせない不完全性があるのだから、それは仕方のないところだし、ある程度のところまで書けば、あとは読む方に任せねばならない、というのはこういうネットという言語依存世界に参加する以上、ある程度の誤解は不可避だとも思います。すべての人に理解してもらうのは、結局のところ不可能だろうし、そのように書こうとすれば、とんでもなく説明的で面白味のない文章になってしまいます。
 また、そういう「言葉足らず」なところがあるからこそ、対話も生れ得るのではないでしょうか。
 
 以前、『バトル・ロワイヤル』でハイタカさんと、『インデペンデンス・デイ』でG31さんと、『蝶の舌』でペペロンチーノさんやtomwaitsさんと、一戦交えたというか、それぞれの作品を通じて、お互いの批評について語り合ったことがありますが、それぞれに結果は違っても、僕としては自分のその作品に対しての見方が広がったし、「ああ、なるほど、そういう見方もあるんだ。また機会があったら観直してみたい」と思えたし、そういうきっかけが生まれたのも、裏を返せば、その「言葉足らず」なところにあったと思います。
 また、最近では『プライベート・ライアン』の僕のreviewを読んでくださって、その否定ではなく、もう一本観てほしい映画があると教えてくださったくたーさんや、『リリィ・シュシュのすべて』では、「映画自体は気になるけど、好きではないのですね。私は"こうこうこういう"ところに惹かれました」と視点の違いをリスペクトしてくださったinaさんがいらっしゃいました。
 そういう、視点は違うけれど、お互いの視点をリスペクトして、かつ、映画に対する自分の思いや考えを磨いていく、そういう喜びを僕は大切にしたいです。
 
 たとえば、大勢で一人のモデルを囲んでデッサンする場合、そのモデルへのまなざしは、各々違うはずです。
 ある人は真正面から、ある人は右斜め45度から、ある人は真後ろから、ちょっと変わった人ならば、真下から描く人もいるかもしれません。また、それぞれに座高が違うのですから、たとえ同じ方向から見ても、見え方は当然違ってくるでしょう。また、そのデッサン前に友達と喧嘩してムシャクシャしている人なら、そのモデルに「怒り」を託そうとする人もいるかもしれません。はたまた、そのモデルという表層レベルから、そのモデルの人間としての在り方という深層レベルを抉り出そうと、筆にこめる人もいるでしょう。
 そのさまざまな視点やまなざしがあって、そのモデルが、さまざまな作品(たとえば、映画。たとえば、コメントreview)へと昇華され、世界へと<暴露>されるのではないでしょうか。そのひとつひとつの束、それこそが「普遍性」だと思います。
 
 また、たとえば、僕が好きな詩人エズラ・パウンドは、ある時期からファシストに傾倒します。だから彼の政治的思想には付いていけないし、嫌悪感すら持っています。それでも僕は、彼の詩が好きです。
 でも、パウンドの詩を、彼がファシストだからという理由で批判する方も多いでしょうし、僕はその方々の意見や批評も賛同はしないけれど尊重します。
 
 さらに、たとえば。
 僕は、数年前に事故に遭って、しばらく入院していた経験があるのですが、そこである70代後半のKさんと同部屋になり、仲良くさせていただきました。
 一緒に将棋をしたり、毎朝散歩をご一緒させていただいたり、お見舞いの品を分けていただいたり♪。そして、いろんな話もしました。Kさんは、戦争に兵士として中国に行かれたので、その体験談も聞かせていただきました。
 ただ、一緒に過ごさせていただいた日日の中で、「日本人は一番優秀な民族だ」というように仰ることが時折あり、その発言には到底賛同し得なかったし、不快感を抱いたのですが、どう反応すればいいのか、困ったことがあります。
 でも、僕にはKさんのその発言に対して異議を唱えたり、反発したり、不快感を表明することも、しませんでした。70何年という長い人生の中で培われた、Kさんの思いや考えを、人生で一瞬すれ違った僕が、たかだか20何年しか生きていない僕が、全否定することが、どうしてできるでしょうか。
 そうでなくとも、その発言を除いては、僕はKさんが大好きでしたから、そういう考えを持たれ、そういう発言をされるのは、Kさんの"一部分ではある"けれども、"一部分でしかない"と捉えることにしました。だから、そういう発言をされる時は、ちょっと困った表情をするだけでした。
 退院した今では、年賀状や暑中見舞いのやりとりをさせていただくだけになってしまいましたが、僕の人生の中で、Kさんとの出会いは本当に大切な出会いです。
 Kさんが、僕より先に退院されることになった朝、いつものように一緒に散歩させていただき、お互い朝日が昇るのを座って見ていました。その時、不意に一言、「心配せんとき。アンタはエエ人生送らはるわ。」と仰ってくださったんです。僕は、辛いとき、悲しいとき、もうダメだと思ったとき、Kさんのそのことばを思い出しては、「ヨッシャ!メソメソしてられん」と思うのです。
 もし、僕が、「日本人が・・・」というひとつの発言にとらわれ拘り、Kさんとの関係を絶ってしてしまうようなことがあれば、そんな心の支えになるようなことばに出会えることはなかったと思うのです。
 
 極論を言えば、映画に対して、またはコメントに対して、「評価」するというのは<善/悪>でも<正/誤>の判断でもなくて、極度に純化すれば<好/嫌>もしくは<快/不快>の判断における「評価」しかないのではないだろうか、と思うのです。
 お互い、生れも育ちも環境も違えば、思いも考えも違います。ならば<好/嫌><快/不快>を抱く、作品の「基準」やことばの「基準」も違うはずです。
 その「基準」の上に、それぞれの映画作品におけるスタンスやベクトルは無限の可能性があり、またその表出方法も無限の可能性があります。その表出に対して、<好/嫌><快/不快>の表明をするということも「アリ」だとは思いますが、そこに<善/悪><正/誤>、その在り方を問うのは、いかがなものでしょうか。
 その他者否定(もしくは、「否定につながりかねない表明」)は、自らの視点・まなざしへの自己否定に発展しかねないと思うのです。
 今回の議論を読ませていただいて、表現方法やことばの選び方にこだわるあまり、そのことばの裏にある<本質>の良さを見失う危険性を感じ取った次第です。
 
 かけるさんの宮崎駿監督作品における一連のreviewは、僕としては、このシネスケにとって貴重なひとつの視点・まなざしに他ならないと思います。また、かけるさんが、あれだけ宮崎駿監督作品に否定的ながらも、実際にご覧になられるのには、彼の作品にそれだけの<力>があるからこそ、だとも思うのです。内容に対して賛同はできなくとも、そういう映画に対する思いや姿勢には賛同します。
 
 いつものことですが、なんだか、まとまりのない長文になってしまいました。すみません。要は、映画そしてコメントreviewにおける無限の可能性を大切にしていきませんか、「批判」はできても「否定」はできないのではないか、ということです。
Re:ワシも率直な意見を少々
ボイス母2002年02月24日15時32分更新
尻馬に乗る様でアレですが、サイマフさま、良い意見をアリガトウ!!上手く言えないことを言葉にしてくれてアリガトウ!!!
あのね、今日気がついた事なんだけど、書いても良いかしら? 実は、さっきまで『赤ひげ黒沢明監督三船敏郎主演を観てたんだけど、この「赤ひげ」センセイってまるで某M崎監督みたいなんです。 その「偽悪的な態度」っつーか、「素直じゃない男のダンディズム」?「家父長的威厳に縛られた男のあるべき後ろめたさのナイ正義感の持ち方」っつーか。 「あ、なんかワカッチャッタ」って気がしました。
きっと、M崎監督はこの作品(というか黒沢作品全般)に対し、「リスペクトする」とともに、「一つの美意識の共有がある」のではナイカ?と感じた次第です。
この、金熊賞の言葉だって、「そんなに深い意味があっての発言ではない」という気もします。 初老の男の照れ隠しというか・・・あ、また話が逸れた!?
だからといってワシがその態度に理解は示すが、好意的に受け取るかどうかはまた別問題なんですが。 (「おっさん、素直に嬉しそうに受け取れーやー」だったりするし)
Re: パラダイムへの「言及」
G312002年02月25日02時58分更新
かけるさん、私の発言のためにレスをいただき恐れ入ります。そしてありがとうございます。
 しかしすいません、かぎ括弧を使って書いたので引用だと思われてしまったようです(それも当然です)が、引用のつもりではありませんでした。以下、引用は「」、要約は[ ]を用いて表すことにします。
 私自身は人権や民主主義は現実社会の基本的パラダイムだ、と考えているものですが、そんなことはまさに「この場で論じることではないと思います」。
 ただ、かけるさんは人間の「子供を愛し慈しむ」行為を動物的な本能としたうえで、正義の是非以前の問題だとしているようですが、それでさえ、つまり[本能に反する]という理由でさえ、映画の評価を下げる直接的な理由にはならないのではないでしょうか。かけるさんが[動物的な本能に反する映画を批判するのは当然である]と主張されるのであれば、それはそれで一つの考え方だなと思えるのですが、かけるさんはそう主張する代わりに、「かくも広範かつ大規模な資本投下で宣伝され、かつ子供たちを主対象に制作公開されている」という理由で批判しているかのように受け止められました。
 サイマフさんや他の皆さんがおっしゃるように、いろんな意見が並立するところがこのサイトのよさだと私も思います。ヘイトメールを送るなんて言語道断の行為です。私はメアドを非公開にしていますので、かけるさんの毅然とした態度には尊敬の念を抱きます。あまり悪質なものについては管理者(舘村氏)に報告してもいいかもしれませんね。それでは今後もよろしくお願いします。ありがとうございました。
 追記:私もかけるさんの当該review読みましたが、「言葉足らず」だなんて感じませんでした。投票こそしていませんが、明快な論旨だったと思います。もし全面的に書き直されるというのであれば、それはそれでおおいに期待させていただきます。
Re: 正義の見方
X68turbo2002年02月25日10時01分更新
ぶっちゃけ人間として最低だろうとなんだろうと、
最高の映画作っちまうんだから世の中面白い。
おっと、初っ端からずれましたが、例えば。
「腕の良い料理人、されど性格が悪い、この店は繁盛するか?」
答えは当然繁盛します。上手い料理と客に対する気遣い行っている限りは。
つまり、映画と言う主題に於いて、監督の人格、賞なんて物は 正直どうでもいいところです。
Re: 正義の見方
くたー2002年02月25日12時07分更新
遅ればせながらかけるさんから頂いたレス、拝見させていただきました。またもや少々誤解があったと思われるので、付け足させて頂きます。かけるさんの宮崎氏作品のreviewに関して、言葉足らずだとは私も全く思っておりませんし、実際他の方と同じくとても秀逸なreviewとして楽しませて頂きました。要は「脱線してしまって申し訳ありません」という断りを入れた上での、当掲示板のスレッド中のひとつの言葉に対しての言及をしたまでのことです。おそらくここで話合うべきことでもないことに、話題を持っていってしまったこと自体に問題があったのだと思い、個人的なメールのやりとりで済ませておけば良かったのかなぁ、といたく反省しております。 それよりも、かけるさんに舞い込んでいるメールの方が心配です。冷静な一意見であればいいのですが、もし制裁めいたメールだとしたら、このサイトに自分の思いのままにコメントを寄せている一コメンテーターとして、それはもうひとごととは思えないくらいコワい。それこそバッシングです。サイトの存続に関わってくるような反則行為でない限り、それぞれのコメンテーターの意見を尊重しなければ、このサイトは成り立たないと思いますので、いま一度冷静になって「人の意見に耳を貸す」という姿勢を各自で確認すべきでは、などと思ったりしております。
[最初から全部見る]