[コメント] 告白的女優論(1971/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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三人の女優たちは、物語の上では殆どその関係性が表面化する事は無いが、各々の、虚構を生そのものとする在り方の共通性で結ばれている事で、互いに合わせ鏡のように見える。鏡といえば、劇中での鏡を用いたショットの多用も効果的だ。特に、人物が映った鏡が、断片のようにショットに捉えられた、「人物が映っているのに無人」であるショットが印象深い。
三人の共通点としてまず気づくのは、三人とも、女優志願の娘や、同居する旧友、専属スタイリスト、といった形で、もう一人の女が傍にいるという事。三人の女たちは、この片割れとの嫉妬の関係という形で、自らの秘めた欲望を顕在化させる。もう一つの共通点は、彼女らが三人ともそれぞれの仕方で、高所から、男女の逢いびきを目撃する事。この事で、嫉妬という感情と、見られずに見る=「覗く」という行為との結びつきが感じとれる。
嫉妬とは、自分が居るべき場所を、他人が奪っているという感情。つまりは、他人の立場に自分を重ねながらも、その他人への拒絶反応を起こすという事。この、自他の区別の混乱と、アイデンティティの揺らぎが、この映画の重要な構成要素となる。
自他の区別の混乱と同期するかのように、虚実の区別も曖昧になる。例えば、一森筐子(岡田茉莉子)の見た夢を、精神科医の立ち会いの許、再現するシーンでは、演技と現実、役割と自己とが溶け合ってしまう。このシーンが喜劇的に見えてしまうのも或る意味では必然であり、この映画全体が、映画や女優、それを観る者の織り成す関係を巡る、一つのパロディなのだ。
女優という、その肉体そのものが虚構のイメージと区別し得ない存在。その事から逃れようとするかのように、伊作万紀子(有馬稲子)は自殺を図る。だが恋人の唐沢は、自殺によってすら、彼女の身に染みついた虚構性からは逃れられないのだと宣告する。その言葉に激高して、鏡に鋏を投げつける万紀子。だが、ひび割れた鏡には、依然としてその姿が映る。
これに先立って、スタイリストのノブから口づてに聞いた唐沢の言葉、「自殺狂である事も含めて、伊作万紀子の魅力だ」という言葉は、死も含めて全て虚構であり、それ故に愛するのだという意味だ。彼女は、唐沢を巡ってノブに勝ちながらも、自らの鏡像、イメージには、完全に敗北していたのだ。彼女が鏡に投げつけた鋏が、ノブから渡された物なのも皮肉である。
万紀子は、自ら嘘に耽溺する女ではなく、他者から嘘に閉じ込められる存在だ。万紀子と心中を図って死んだ筈の父も、実は生きていた。万紀子は、父は死んだと嘘を教えてきた母を詰るが、母は「でも貴女はその嘘のおかげで、女優への道を歩む事が出来たのよ」と言う。女優の道を歩む以前から、嘘を生きていた万紀子。
海堂あき(浅丘ルリ子)の場合、虚実はより曖昧だ。男性教師との猥褻事件について京子(赤座美代子)から非難されたあきは、あの時、昏睡状態のまま教師に犯されたのは自分だと言う。これは、真実かも知れないが、京子から受けた復讐への報復感情、或いは、男から欲望の対象とされるのは自分だという願望から発した虚言かも知れない。京子の策略のせいで、夫の不倫相手としてあきに抗議に来た能勢夫人が持参したガラスビンの液体にしても、それがうがい薬か硫酸かは、ビンが割れるまで判別し得ない。能勢の言う「透明で、どこまでいっても抵抗も反応も無い被写体」としての女優。
劇中、この三人は殆ど接点が無く、最後にやっと顔を揃えたかと思えば、その目線は互いに交わる事なく、観客の方へと真っ直ぐに向けられている。それに先立つ、彼女らが取材を受けるシーンでは、別の女優にシーンが移る際、彼女らが使っている鏡や仮面がシーンをつなぐ。つまり、彼女らのつながりとは、その顔を覆う虚構でしかないのだ。このシーン自体が化粧風景であるのも意味深だ。――「貴女の美容法は?」「心を空っぽにする事」。
対して、男たちは皆、自分が年を重ねて、もう若くないのだと言う。筐子のマネージャーである南川(三國連太郎)は、トラックにはねられて死ぬ際で、「俺を見るなよ」と、女優は醜い死など見てはならないと繰り返す。死や老いは現実であり、装われた空虚としての女優としてある事でしか、美は保持され得ないのだ。
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