[コメント] 奇跡の海(1996/デンマーク=スウェーデン=仏=オランダ=ノルウェー=アイスランド)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
本作は小説のように章立てで、各章のはじめに絵画のようなデジタル処理された風景(しかしどこかが動くので動画であるとわかる)と70年代ロックが流れるという、まるで本を開いているような形式が、アイルランドの秘話といった雰囲気へといざなってくれます。
ストーリーとしては、新婚間もないベスとヤンですが、北海油田を掘る仕事をしているヤンは事故で全身が麻痺してしまいます。ヤンは妻をしばることを嫌い、愛人をつくるようにと命じます。ベスはその言いつけを守ることが、夫のからだの回復をはかることだと信じてそれを実行に移します。ああ、何て愚かな人たちなの!!!!。ぶっとばしたくなりますよねぇ。でもそれが生きてるっていうことなんだろうなぁ。ラストで、ヤンが危篤状態になると、それは自分がおっそろしい男たちのところから逃げてきてしまったからだと思い込んだベスが、そのけだものたちのところへ戻ってリンチを受け、病院に運ばれますが無残にも死んでしまいます。リンチのシーンはカットされているだけにもう想像力をかきたてることかきたてること。あんな目にあうのは死ぬよりもっとこわいことです。この映画を見た後の気持ちの悪さは、きっとここからきているのだと思う。その意味で、わたしはこんな残酷な映画を見たことがありません(もう二度と見たいとも思わないし)。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマの絞首刑シーンが、牧歌的にすら感じられてきます。ここには、人間が行えるもっとも純粋な行為と、もっとも邪悪な行為とが表現されているのだと思います。死ぬ間際、彼女は「すべて間違っていた」ともらします。ところがそれが奇跡を起こし、ヤンは回復。死んだベスは結婚式では聞くことのできなかった教会の鐘を、ヤンのいる下界に向けて高らかに鳴らします。おしまい。ああ気持ち悪かった。すっごく美しい映画なのに。
そしてそれこそが監督の言わんとしたことなのでしょう。ベスの行為について、担当医のリチャードソンは法廷で証言を求められ、それが「善意」によるものだった、と言います。善意のもつある種の愚かさ、残酷さ。それは何も善意を行う人にとってのそれだけではなく、それにむらがる人間の愚かさであり、残酷さでもあります。ではなぜ最期に、まるでそこには救いがあるかのように、天からの鐘が鳴り響くのでしょう。それがいかに愚かな結果をもたらすことがあれ、われわれはそれを捨てることはできない、きっと誰かが見ているさ、みたいな道徳譚を語りたいのでしょうか。それとも、愚かさもいくところまでいけば真実を掘り当てることができる、奇跡を呼び起こすことができる、という信仰? あるいは逆に、自分というものを捨てることの愚かしさ、それは善意であるどころか、善意というもののよって立つべき根拠、視線が照射される原点である私が消失しているがゆえに、まともな視界など保持することはできず、しかも私の消失は善意による行為の責任の場所をも消失させてしまう、とか。だから天の鐘は善意による必然ではなく、逆にそれこそが偶然である。つまりこのストーリーは偶然(ヤンとベスの善意)から必然(天の鐘)へと至る物語ではなく、必然(愚かな善意)から偶然(たまたま鳴った天の鐘)へ至る物語である、とか。???
わたしは、生きものがただ死ぬ、というのでなく、見せしめとか腹いせのために、苦しいを長引かせて殺される、というのに底知れぬ恐怖をおぼえます。めちゃくちゃにされたからだ(たとえそれがメークによるフィクションだとしても)絶対そんなものがこの世にあってはいけないと、理屈ぬきで思ってしまうのです。思う、などというものではありえません。それは確かに想像できうるものですし、実際に実在する状況でしょうが、わたしの世界では絶対にあってはならないこと、ありえないことです。それがいかに芸術のためであろうと何であろうと、芸術のわからんバカモノとか、ただのナイーブな道徳主義とか、もう何と言われようといい、わたしのきらいな権威主義的な道徳主義とでも手を結んでも、そんなものが絶対この世に実在できるという片鱗さえも表わさすべきではない、という気になってしまいます。 それがばかげているのはわかります。現実を見すえてこそ、それに対処できるというものでしょう。人間にはそんなことできない、などと思い込んでいたらそれこそたいへんです。そうした映像や何かがあるからそれを真似する者が出て来るのだ、というのもあやしいものだと思います。そして何より、そんなこと考えついてはいけない、とすら考えるわたしの信じられないほどの傲慢さ。
こんなこと書くことで何が言いたいのか自分でもわかりませんが、とにかくわたしにとって、死ぬよりこわいことがそれなのです。なぐられたりけられたり、ナイフで切られたり骨を折られたり、そして何よりレイプされること。そんなことになるぐらいならすぐさま死なせてと思います(よくスパイとかが奥歯に青酸カリを仕込んでいて、捕まるとそれを噛んで自殺する、とかいいなぁと思います)。そして同じことを、食べられるどうぶつたちに思うのです。
たとえば、かにくんが、からだをばらばらにされて、ひっくりかえされて脳みそまでスプーンでかき出されているところ。もちろんもう意識はとっくの昔にないのでしょうが、どんな気分で自分の姿を見るのだろうと思います(たとえば霊となって上の方からそれを見て)。じゃあばらばらに切り刻まれた肉片はいいのかと言えばまだましです。狂牛病のおり、牛ちゃんは「枝肉にされ…」とかいうのを見たときも、その手足を切られ、首を切り落とされた姿をどんな風にながめるんだろう、と思ってしまうのです。
どうもわたしは肉体、というものにものすごく思い入れをもってしまうみたいです。そういえば火葬って何てひどいことするんだと思いましたよ。
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