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[コメント] ウンベルト・D(1952/伊)

貧しさを身体の痛みとして表現するという戦略が、あえて演技の零度をマークする素人を起用するという戦略と一体化し、圧倒的な明快さを生む。極端な遠近法的風景の消失点から表れるのは女家主や機関車など、この映画の主人公にとって禍禍しいものばかり。そして、
ジェリー

この極端な遠近法が隅々まで支配する画面の奇妙な画角に我々は容易に気づくだろう。極端なローアングル。天井が見えるほどに。やがて、この画角を生むキャメラ位置の高さが、主人公が可愛がる犬の眼の高さと同じだと気づいた時に、私は拭っても拭っても流れる涙の始末に困った。主人公の状況に涙を流したというのでは言い足りない。私は映画の中で犬の立場で主人公を見ていたのだ。自分を飼ってくれる主人の苦境をただ見つめ続けることしかできない無力な生き物としての犬の哀しさまで引き受けてしまうことになってつらかったのである。「その身になってみる」という表現の理想が実に単純に実現されており、それ故に圧倒的なのだ。

悪としての人間のオールタイムの酷薄さを描いているのではなく、もっとやっかいな、悪とばかりは必ずしも言い切れない人間の自然な一面としての酷薄さを、この映画は過不足のない典型として描いている。フェルメールの眼のごとき映画だ。

この映画のネオリアリズモ性が、ロケーション撮影から生まれているという定説があるようだが、間違いとは言わないにしても言葉足らずだと思う。ロケーション撮影から生まれているというよりも、当時のセット撮影ではまず無理な、ロケーション撮影でしか成立し得ない、広い空間における広角レンズによる極端な遠近法の視野が主題群をきわやかに浮かび上がらせたことでネオリアリズモ性が生まれたというのが正しい。その意味では私にとってネオリアリズモは自然主義ではない。至上の単純さを獲得したケレンの一種である。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)ぽんしゅう[*] 寒山拾得[*] けにろん[*]

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