[コメント] おもひでぽろぽろ(1991/日)
巷間、実写で撮れる素材をアニメにする理由は、いくつかあると思うのだが…これはそのどの場合にもあてはまらない。アニメーション作家高畑の失策。
ちょっと列記してみよう。
1.実写で撮るにはお金がかかりすぎる場合。 海外であったり古代であったり、あるいは想像上の世界であったり。これは止むを得ないだろう。CGが発達して随分その壁も突き崩されてはいるが、日本で「ハイジ」や「赤毛のアン」を撮るのはやはりまだ限界を超えているだろう。だが、この映画の野菜畑の美しさは実写で描けるし、描かなくてはいけないものである。
2.実写では観客のシンパシーが得づらい場合。 確かに、「はだしのゲン」や「じゃりン子チエ」を実写で撮れば、主人公たちへの共感よりもショックや悲惨さが先に立ってしまい、なかなか成功しづらいことはあると思う。(「はだしのゲン」の実写版は観たが、グロテスクさばかりが印象に残り、感情移入には至らなかったのを覚えている)この場合が「おもひでぽろぽろ」の問題なのだろうが、少女時代にせよ、若者となった時代にせよ、撮り方を換えるだけですむことと思えてならない。例えば少女時代をソフトフォーカスやモノクロで撮るとか。アニメ的なキャラクターの美化もない異常なリアル志向のことを考えても、青年時代がアニメで描かれることにはジブリの名を存続させるぐらいの理由しか見当たらないのだ。
原作のまんがだけなら、アニメで撮る理由づけはできたかもしれない。遠い少女時代をまんが的タッチで描くのは、理由は薄弱だがアニメとしての成立理由はある。だが、そこにサンドウィッチ方式で実写で撮るべき(これは絶対的な理由である)シーンを挟むことで、高畑勲はアニメーションとしての存在価値を放棄してしまった。これは明らかな失策であると感ずる。
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