[コメント] ダーティハリー(1971/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
もう何十回観たかわからないこの映画に、いまさら何のコメントも浮かばない。そこで以前から思っていた疑問点について考えてみることにした。
まずは、犯人の描写がなぜこんなに長いのかという点である。下手したらハリーの描写と同じくらいの時間を割いている。もっとハリーの活躍を見せた方が面白くなるはずなのに、なぜそうしなかったのか。
次に犯人のスコルピオは、なぜ黄色にこだわるのかという点である。冒頭の狙撃で、プールの美女が着る水着の黄色。金を要求するバッグの黄色。バスジャックのバスの黄色。いったいこれは何を意味するのか。
最後に、銀行強盗の場面で、消火栓から水が吹き出すことに何の意味があるのかという点。単なる見せ場にしても、手間ひまかけてまで水を使ったことに、何か必然があったのではないか。
以上の3点が私の疑問点であった。そこで私は今回コメントを書くに当たり、この3つの疑問点を意識して再度観直してみることにした。
まずは犯人スコルピオの描写がハリーと同じくらい長いという点について。今回観直してみて浮き彫りになったのは、二人の人物の共通点。まず彼らは外見からしてよく似ている。白人で、眼がブルー、髪の色も似ていて、髪も長い。そして服装の好みも似ている。スコルピオは終始茶色のカーディガンにブルーのシャツが定番ファッション。対するハリーも茶系の服を多く着用し、特に黒人少年の射殺現場での服装は、茶色のジャケットにブルーのシャツという犯人と同じコーディネイトだったりする。(ちなみに茶色はダーティの象徴)
また彼らは外見だけでなく、嗜好性や習性もよく似ている。二人ともスコープや双眼鏡で覗くのが好きらしく、女の裸を見たり、やたら銃をぶっ放すところも似ている。そして群れたがらず、単独で行動する。彼らはともに、社会や組織から外れたアウトローであり、どちらも正義と悪に対する執着心が異常に強い。
そしてこの映画は、そんな彼らの行動を交互に描いている。冒頭でスコルピオが狙撃すれば、その直後にハリーは銀行強盗を退治する。次にスコルピオは屋上でヘリに見つかり狙撃に失敗すれば、ハリーも人違いとノゾキで失態を演じている。ハリーがその後、自殺志願者の命を救うと、スコルピオは少年の命を奪うなど、こうした対のような動きを見せる彼らは、まるでなにかのゲームのように、攻防を繰り返してゆくのだ。
彼らが対をなす存在という見方が濃厚になってきた私は、スコルピオという名前に着目してみた。そもそもスコルピオにはなぜ名前がないのか。とっくに身元は割れてるはずなのに、劇中では最後まで彼の本名が呼ばれることはない。そこで私は、彼が「さそり座」そのものを象徴している存在と考え、天体の星座について調べてみた。するとさそり座には、ライバルがいることが判明した。そのライバルとは火星。さそり座の中心となる星(アンタレス)と火星は、どちらも赤く輝く惑星として一種のライバル関係にあり、どちらがより赤いかを競い合っている、というのが星座の世界での常識であった。そして火星には「軍神」という意味があり、その神は「荒ぶる神」として怖れられた存在だった。これぞまさにハリーそのものではないか。つまりこの映画は、さそり座と火星が、その赤さを競うという神話的な構造を持った現代の寓話だったのだ。劇中で彼らが出会う十字架の場面で、スコルピオは赤いマスク、ハリーは赤いベストと、互いに赤を着用しており、さらに彼らは、互いに傷つけあう血の色でも、その赤さを競っていたとも言えるのだ。
さて色が出てきたところで、次は黄色にこだわるスコルピオの謎に迫ってみたい。この謎を解くカギはオープニングの場面に隠されていた。この映画の始まりは殉職警官の慰霊碑であり、カメラはそこにある警察の金色のバッジを映し出し、そしてスコルピオのサイレンサーの銃口へと重なってゆく。この場面の繋がりにより、彼が狙っていたのは警察のバッジだったという演出が窺える。さらにこのバッジ、よく見れば黄色い太陽のようには見えるではないか。ならば彼は、太陽を憎み、太陽に弓引くもの、いや太陽に引き金を引く者だったのではないだろうか。太陽=神とするなら、彼は神への反逆者だったと言えるのだ。神と言えば、この映画には宗教を感じさせるアイテムが数多く出てきている。深夜の屋上に浮かぶネオンサインや、公園の十字架や教会の神父など。そしてスコルピオはそれらをことごとく冒涜するかのように行動する。そんな彼の行いや、卑劣な犯行を繰り返すのも、彼が神への反逆者であり、だからこそ太陽に近い色として黄色を憎んでいたと解釈できるのではないだろうか。
では最後に、消火栓の水について考えてみた。まずは「水」というキーワードに注目してみると、劇中に出てくる水は3ヶ所。銀行強盗の場面の他に、冒頭の狙撃の場面のプール、それとラストでスコルピオが落ちる池の水である。これらが共通するのは「死」。そしてこの三つは互いに相関関係にある。冒頭の水は、スコルピオがもたらす死の水であり、それと対になる消火栓の水は、ハリーがもたらす死の水である。さらに消火栓の水柱と、ラストで池に落ちるスコルピオの水しぶきの対。そして冒頭で美女をプールに沈めたスコルピオが、最後は彼自身がプールのような池の中に沈むという対。つまりこの「水」はそれぞれの場面と対になるための「死」の演出だったのだ。
そして私は、ここからさらに一歩踏み込んでみた。それは消火栓の水柱の運動性についてである。あの水柱はタテの運動を示している。そしてこの場面では、水柱とハリーの姿が重なって見える演出がされており、ハリーとタテの運動性を関連づけている。これを念頭に映画を振り返ってみた。ハリーは自殺志願者の救助のためクレーンに乗るが、これはタテの運動にあたる。続いてハリーは屋上での張り込みでタテに長いネオンの下に陣取って行動している。そして犯人を追ってスタジアムのフェンスをよじ登るというタテ運動。さらには、クライマックスのバスへのジャンプというタテ運動。そしてラストは射殺されたスコルピオのタテの落下である。ではスコルピオに運動性はないのだろうか。
ハリーの運動性がタテなら、スコルピオはヨコであると仮定してみた。まず冒頭の狙撃でプールで泳ぐ美女を追うスコープのヨコ運動。次に黒人をスコープで追う場面もヨコ移動。ハリーとの屋上対決でもスコルピオはヨコ移動し、そして誘拐事件により身代金を持ったハリーにヨコ移動を強制する。そんなスコルピオも十字架の下でハリーの反撃にあい急斜面をタテに転げ落ちる。やがて彼はバスジャックを敢行し再びヨコ移動で逃亡を図り、そして最期には自らが池の中でヨコに浮かぶ。ラストの池の淵に立つハリーと池に浮くスコルピオの対比は、彼らがタテとヨコという対極の人物像であることを象徴していた。そしてそんなタテとヨコの二人が交差するという物語の構図は、二人が初めて対決する場面にあった、あの十字架に暗示されていたのだ。
ではこの映画にとって、十字架とは何を意味するのだろうか。この映画では罪を犯した人間を法律で裁くことができなかった。罪を裁くはずの法律が、逆に罪を犯した者を守ってしまうのだ。そこでハリーが法を逸脱し、犯人と対決する。法を犯した犯罪者を裁くために、法を犯してしまう刑事。どちらも法を犯している者同士であり、映画はそんな両極端な善悪を描くことで、正義とは何かを観客に問いかけている。二人の人物は「罪」と「罰」の象徴であり、それは我々の心に突き付けられた十字架なのだ。我々観客は、その十字架を見ることにより、我々自身の「良心」が試されているのだ。本来、罪を裁くのは法ではなく、人の心だったはず。だがいつしか人は、自らの良心よりも法律というルールに束縛されるようになってしまった。映画のラストで、ハリーはバッジを投げ捨てるが、これは彼が法を守る一警官としてではなく、一人の人間として、その良心に従って行動したという意思表明でもあったのだ。
現在の日本を見ると、以前に比べ治安が悪化する一方である。それは私たち一人一人が、良心というものを見失いかけている証拠ではないだろうか。犯罪を見かけても見て見ぬふり、法に触れなければ何をしてもいい、さらにはバレなければ少しくらい罪を犯してもいい、そんな風潮が当たり前のようになってはいないだろうか。我々の罪とは法律で裁かれる以前に、自らの良心によってこそ裁かれなければならないのだ。映画の中の、闇に白く浮かび上がった十字架は、罪の意識が薄れている我々現代人に、今一度人間の良心に立ち返るべきだ、と訴えかけているのだ。「罪を裁くのは法律ではなく、あくまで人の心なのだ」と。
以上が疑問点に対する私なりの回答である。これが正しいかどうかはわからないが、そういう見方もできるというのは、それだけ映画の中にいろんなアイデアが詰まっている証拠でもあると言えるだろう。いずれにせよ、今回改めてこの映画を再考してみて、結論として私が言えるのはただ一つ。
ダーティハリー最高!(ベタですみません!)すべてはこのひと言につきるのであった。(2007.7.30)
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