[コメント] 半落ち(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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梶刑事が、今回の事件において乗り越えなければならなかった苦悩とは、ひとつは妻の正気を保つ為に妻を殺すということ、もうひとつは妻を殺すための必須条件だったはずの自殺を翻し、あえて恥を忍んで生きること、だった。ドラマでは後者の理由を主人公がひた隠しにしたことで、タイトルの「半落ち」状態になり、その状態が法律的(立件手続的?)に困る当局と、コメンタリー的に納得できないマスコミ(と一般の人々)とが、その「真実」を追求しようとする様子を中心に描いていく。
しかし、彼らが求める「真実」とは、警察の上層部の人間が繰り返し口にしている「よし、その線で行こう」という類の、大勢の人が納得のいく理由であって、必ずしも《真実》であるとは限らない。社会が追求できる「真実」とは、所詮「本人の気持ちなんか誰もわかるはずがないのだ」というスタンスのものであることが、作品を通じて伝わってくる。
梶刑事が法廷で語気を強めたように感じたところが、私には2箇所あった。ひとつは「息子が骨髄移植を受ければ助かったと思うか?」という質問に対し、「確実に」と短く答えたところ。そしてこの事件の最大の焦点である殺人(まず、なぜ生きたのか?よりもなぜ殺したのか?ではないか?)の動機が、ただの尊厳死や依託殺人ではなく「妻は2度息子を失ったからだ」と答えたところだ。
ちょっと話がそれるが、この台詞、本来は「妻は(生きている限り)息子を失い続けるからだ」というのが正しいのではないだろうか。墓参りに行ったことを忘れたというのはひとつの例であって、記憶を取り戻すたびに何度も息子の死に向かい合わなければならないということが、これからも続くのだ。だから、妻が「息子のことを覚えているうちに殺して」という理由もさることながら、妻の地獄のような責め苦を正直見ていられなかった…とかが本当の理由で、「半落ち」の落とせなかった真相は、「なぜ生きたか?」のほうではなく、「なぜ殺したか?」の依託殺人の中に潜む殺意のほうだった…そういう方向にいくのかと思ったけど、もちろん違います…。誤読ついでに言えば、「2度」というくくりでいえば「私は2度妻を殺したのだ」というほうがしっくりくる。自殺をしなかったことはまぎれもなく妻を裏切ったという意味で。
話を戻します。
この梶刑事の感情の昂ぶったところこそが、彼の《真実》であり、それが法廷ではあまり気も留められず、また大勢の人にもさして注視されず、判決を下す判事も「2度息子を失う」という意味に深入りせず、自分の身内の苦労とだぶらせて考えてしまう。警察もマスコミもレシピエントの少年が働いていたラーメン屋がたまたま歌舞伎町にあったということで「困ってしまう」が、一体それは誰の何のために困っているのか?、つまりその場所が中華街だったり、銀座だったら、「真実」への関心は変わったのか? ラーメン屋の場所に左右されるほど「真実」とは多様的で、その本質にはなかなか辿りつけないのだ、ということを、諦念を貫き通す寺尾聡の演技で語りたかったのだろうか? それとも、人として他人を助ける可能性がある限り生き続けよ、ということなのか? どうもよくわからない。私が観終わった直後、最も強く感じたことは「よしドナー登録しよう」だったが、そういうことで良かったか?
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