コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ロスト・イン・トランスレーション(2003/米=日)

かつて誰かも似たようなことを言ってた。「その川を飛び越えて来い!」
tredair

彼女がもし前半部分で隅田川を渡り「川の手」に来ていればTOKYOでもトーキョーでもない「東京」を満喫することができただろうに、と考えると少しさびしい。元来「ムラ社会」である下町は「よそ者が暮らす」となると妙に閉鎖的な場合も多々あるが、こと相手が「客人」となれば、ここは本当に2000年代の東京なのか?と思わせられるような純然たるホスピタリティを、個別の人びとどころか町ぐるみで発揮してしまうことが往々にしてあるからだ。言葉の壁などなんのその、そんなことで悩む暇さえなくすほどの「素朴なおもてなし」をきっと随所で得られたことだろう、と思うと残念でしょうがない。

また、そういった人任せなことは別にしても、「街角にやたらとキツネやスキンヘッドの子どもが祀られてるなぁ」とか「妙に猫が多いんだなぁ」とか「てゆーか下着同然の姿で家の前に座ってるこの老人たちはいったい?」とか「ヤキトリは飲み屋限定のものではなく小学生が学校帰りに食べるものでもあったんだ」とか「あのラッパの音色とともに売られているのはもしかしてトーフか?」とか「木造家屋だ!木造家屋だ!」とか「盆栽だ!盆栽だ!」といったような、新鮮かつなじみやすくもある「生活と密着したおもしろきもの」をもっと自然に見つけることができたのではないかと思う。まー、それでは話が全く変わってしまうがな。

なんて傍流の話はともかくとして、この映画のたどたどしい自主製作じみたつくりは本来のテーマがテーマだけにかえってよかった。特に「場面転換が唐突なところ」などは、その思いつき上等!ゆえのぎこちなさがチラウラ私小説ならではの生々しさを増していて、かえっておもしろい効果になっているとさえ思った。起承転結のはっきりしない展開も含め、すでに製本され流通ルートに乗ったものではない「日々更新される公開web日記」をリアルタイムで読んでいるかのような興奮を得た、とでも言えばよいのだろうか。

これみよがしなゲスト出演についても、いかにもっぷりに腹が立つというよりはむしろ時代性が如実に出ていて興味深かった。こういった「お友だち自慢」じみたものは、例えば「密室劇のくせにゲスト出演過多な三谷幸喜映画」ではかなりのげんなり要因だったりもするのだが、この映画の場合(たとえ主人公たちの心自体は密室に閉じこもったものであっても)背景となる舞台はあくまでも「限定された時代の限定された街」なので、その景色中にアイコンとなりえるような人間をアイコンのまま放り込んでしまうというのは、考えようによってはひじょうに巧い手法なのではないか、とさえ思った。アイコンとしての扱いでしかないのでぶっきらぼうと言ってはぶっきらぼうなまったくもって心ないやり口ではあるが、そんな監督と出演者たちのあいだにおける微妙な人間関係など私(観客)の知ったこっちゃない。

また、せっかく日本に来るならば少しでも日本語を話せばよいのに、ということに関しては正直な部分では私も心から同感なのだが、以前、東北出身の友人が「東京で生活しつつも当然のごとく関西弁を通すひとびと」を指し「なんで私たちは標準語を話すのに彼らだけは堂々と方言を使い続けるの?それでよいということになっているの?」と言っていたことを思うと少し複雑な心境にもなる。外国語と方言ということでは状況や(発し手、及び受け手側の)精神的なもの等についてもかなり異なるわけではあるが、そういった事情やその程度についてはどうであれ「通じる言語と通じない(ことになっている)言語の区分はどこにあるのか」という核の部分における曖昧さ、端的に言えば「答えの出しにくさ」については同じようなものなのではないかと考える。善かれ悪しかれその区分には歴史的なことや文化的なこと、経済的なことをベースとした大きな意味での「環境の問題」である部分が大きく関わってきてしまうものなのだろうから、また「受け手」のスタンスによるところも大なのだろうから、そう簡単に片付けられる問題ではないのかもしれない。

なおかつこの映画の場合は、望んだうえでの旅行どころか明らかな短期出稼ぎ仕事や出張の付き添いとして来日しただけの「言語(むしろ経済と言うべきか)的に圧倒的な覇者である国の出身者たち」が主役なわけだから、「現地の言葉を学習してから行こう、できるだけその国の言葉を使って当地の人びとと交流をもてるようにしよう」などと言った感覚を彼らがはなから持ち合わせていなかったとしてもそれは当然なのかもしれない、と考えもする。「大丈夫、ハワイは日本の植民地みたいなものだから現地の言葉なんてわからなくても日本語だけでオッケー」などと言い放ち彼の地を「旅する」ひとびとが多い現状を思えば、そのうえで帰国後に不平不満をもらすひとびとが少なからずいることを思えば尚さらだ。

そもそも自分にも(どうしてもその国に行きたかったわけではないのに好きな人がいたからというだけの理由で)言葉の通じない国でしばらく暮らした経験があるので、現地のことやひとなんてぶっちゃけ現状においては書き割りでしかないのだ、といった自分でもなすすべのない傲慢さや、なればこそのデッドエンド的な孤独感や焦燥感はわからなくもない。それどころか、特にすることもなくただただ相手を待ちわびて部屋でぽつんと過ごしていた時の気持ちが痛いほど思い出され、切なくてしょうがなくさえあった。誰ともコミュニーケションがとれない状態でのあの状況は、本当に心の奥底までチーンとひとりっぼちになってしまうんだよな、と。意味を解せないのにペラペラ話しかけられても、嬉しいどころか怖いだけなんだよな、と。だからといって語学留学に来たひと並の言語習得に対するモチベーションを持てと言われても弱っちゃうんだよな、と。しまいにはだんだん外に出ることさえ苦痛になってきて、ついついひきこもりがちになってしまうのだよな、と。

けれどもそのように共感すると同時に、共感できるからこその歯がゆさも感じ、たいがいイライラもした。自分の経験は棚上げしたうえで「出ようと思えば出られる場所にいるんだから、もっと前向きになって今を積極的に楽しもうよ」とキリキリ胸を痛めもした。そして、とりあえず「気をまぎらわす相手」についてはきっちり見いだせた彼らを、この国に来るきっかけとなった本来の悩みについてもしばし忘却させてくれる相手を得た彼らを、素直にうらやましくさえ思った。

いずれにせよ、そのリアリティたっぷりな寂しさの見せ方は秀逸だったと思うし、うろおぼえではあるが「女の子は誰だって写真に夢中になるものよ」だの「君はまだ絶望にはいたってない」だのといった乙女心直撃系な台詞は、その甘いセンチメンタリズムも込みで好きだった。主役ふたりのキャスティングやその結果にも説得力を感じ、彼らだったからこそのネオリズモっぷりさえ味わうことができた。とりわけスカーレット・ヨハンソンについては『終着駅』のジェニファー・ジョーンズを想起させるものさえあり、実に素晴らしかった。と思う。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (3 人)死ぬまでシネマ[*] わっこ[*] けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。