[コメント] 永遠の語らい(2003/ポルトガル=仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この歴史解説が無味乾燥なものとならずに済んでいるのは、少女が発する質問が、大人達の知識を、所謂常識から離れた自由な連想や、言葉の意味への揺れ動かしによって、解体しつつ活性化してもいるからだ。
少女と、その母親である歴史の教授が船旅をするのは、教授が「本で読んだ事しかない場所を訪ねたかった」から。活字としての歴史から離れ、具体的にそこに生きる人間が肉声で語る歴史への旅。彼女自身、その知識を娘に語る事で、自らの知る歴史を肉声化している。
「語らい」は歴史を巡って始まるが、船内での、船長と三人の女性による語らいへと至ると、徐々に、男女の関係や、仕事、家庭といった、より私的な要素を加えていく。この四人の会話は、四人共が全ての参加者の母国語を解するという稀な事情によって、バベルの塔の崩壊以前のような円滑な会話となっている。ギリシアは文明の発祥の地でありながら、英語のように自国語で世界を支配はしなかった。だが、この席にあの母娘が加わる事で、会話はやはり英語に支配されるのだ。
ここで気づかされるのは、非西洋の地に到達しながら、現地の人間との会話が描かれていない事。アラブ人は、四人の語らいの中では、ギリシア文化を広めながらも図書館を焼いた不可解な人々として語られる。図書館=活字の集積体。これは、語らいとしての歴史、現実に人が息づく土地と向かい合う事としての歴史からの分離だ。アラブ人は、聖書の物語としては、追放された人々の子孫という位置付けであり、この映画での語らいに於いても、その生身の存在は排除されている。
この事が、アラブ人への否定的な態度そのものと映りかねない危険を、オリヴェイラ自身がどこまで意識していたのかは分からない。だが、爆弾が仕掛けられた船から乗客達が脱出しようとする中、少女が部屋に戻ったのは、船長から貰ったアラブ女性の人形を取りに返ったからだ。少女は、男の人達はどうして戦争をするのか母親に訊いた時、こんな答えを聞かされていた。「本能ね。例えばお人形を誰かに取られたら、取り戻そうとするでしょう?それと同じ事」。だが少女の人形は、誰かに取られた訳ではない。少女は、アラブ人の仕掛けた爆弾によって、アラブ人形と共に海に沈むのだ。
エンドロールが、船が沈む悲痛な音を観客に聞かせながら終わるのは、「聴く」事の映画の終幕を聴かせているという事であり、語らい、他者の声を聴く事そのものが崩壊する音を聴かせるという事。最期の最後に聞こえる、アラブとさえ繋がっている絆としてのギリシアの唄は、世界の対話という希望と、その絶望とを同時に感じさせる。
異国へと繋がる、開かれた通路としての海は、爆弾の存在によって反転し、船を、逃げ道のない場所と化す。この船や海を、航空機や空(つまり、9.11に)に置き換えて考える事も出来る。母娘は、「パイロット」である夫に会いに行く為に旅していたのだ。
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