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[コメント] ボルケーノ(1997/米)

CG時代の派手なハリウッド・デザスター・ムービーが往年のSFや特撮を凌駕できない理由。
kiona

 去るこの映画の日本公開年11月5日、東京国際映画祭で『ゴジラ』のリバイバル上映が行われると聞いて、はやる気持ちを抑えられずに、学校さぼって早々渋谷に上陸した。上映は夜からだというのに、浮かれるまま上陸した後、渋谷に居場所などなかったことを思い出し、これと『陰謀のセオリー』は観た。

 最近のハリウッド・デザスター・ムービーが他愛ないと思うのは、災害をアトラクションぐらいにしかとらえていない点と、性善説を盲目的に固守している二点だ。

 人間=善、災害=悪という単純な対立構図の中で勧善懲悪が貫徹される。虚構は政治や人道の観点から問いづらいことこそ問うて欲しいところだが、自然災害と人間社会の二極対立が西欧の近代思想の伝統だ。自然に対する支配は善であるという信条と、人間は自然を支配できるという信奉。この絶対的な信条と信奉がこの映画にも如実に出ているのだが、その結果どうなるかというと、映画のなかでデザスターは一定の箱庭の中に閉じ込められ続ける。そこには破滅の予感が漂わない。「克服できるし、元の生活に戻れる」という安心感だけがある。『ディープ・インパクト』がいい例だ。映画史上最も絶望的な状況設定であったにもかかわらず、見ていて漫画『ドラゴンヘッド』ほどの実感もわかないのは、作り手が破滅の予感などないまま頭だけで造っているからだろう。

 同じアメリカ映画でも、オリジナルの『猿の惑星』などは年代をともにしたF・K・ディックら優れたSF作家の小説と同じように、西欧近代思想に対するメルヴィルの『白鯨』的な自己批判の延長線上にあったと言える。アメリカン・ニューシネマ的反骨精神が、SFにも確実に脈打っていた。

 日本の往年の特撮映画は、その『猿の惑星』の自己批判とも、またちょっと違っていた。日本人の感覚は、西欧の近代思想とは別だ。島国、火山、地震列島にして唯一の被爆国である日本には、人間が自然を支配できるという発想がまずない。くわえて、災害を消滅させる自信もなければ、常に絶望的な破滅の予感に苛まれている。だからこそ、『日本沈没』は起きてしまったし、核による『世界大戦争』は回避されなかったし、あの『ゴジラ』が最後の一匹だとは思えなかったのだ。

 因果なことに、自分はどう逃れようとしても、古臭い日本人のようだ。リアルに感じるのは『ゴジラ』であるし、共鳴を感じるのは『猿の惑星』であるし、この『ボルケーノ』に脈打つ西欧近代思想の楽観主義には共鳴できないどころか、嫌悪感さえ覚える。とりわけ、ラストシーン、「みんな灰を浴びて白も黒もなくなったね?」風呂に入れば、また差別が始まるんじゃないの…

 いや、アトラクションはアトラクションとして楽しい…それは否定できない。じゃなきゃ観ないだろうという話だ。

(評価:★1)

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