[コメント] ターミナル(2004/米)
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ビクターが、ガラスに気づかずぶつかるシーンは、もちろん他愛のないギャグではあるが、ナイーヴな人柄の彼が、見えざる国境の壁にぶつかる状況とのアナロジーを感じさせて、少し哀しくもある。彼が祖国の政変をテレビで知るシーンでも、画面を見つめる彼の悲痛な表情が、閉まる自動ドアの曇りガラスで観客の視界から遮断されて終わる。また、このシーンでは、「会員の方以外はここに入れません」と追い出されてもいるのだ。ビクターが、バイトとして雇ってくれるよう頼んだ店長と、夜、ガラス越しに顔を合わせて電話し合い、断られるシーンなど、ガラスの距離感が醸しだす可笑しさと哀しさが、共に自然に出たシーンとして印象的だった。
スピルバーグ印の、画面から観客の方へ差し込む光の演出は、まず、ビクターに食事と交換の取引を持ちかける青年エンリケの登場シーンでユーモアを込めて用いられるが、物語も終盤に入ると、アリメアとのキスシーンで、ビクターの作った噴水の壁面で反射する光として現れる。光という面では、アメリアとの関係が深まり始めるのに合わせるように、画面を黄金色の光が覆うようになる。その温かみのある夕陽はまた、来たるべき終焉、別れを仄かに予感させもするのだが。ビクターが作った噴水から水が出ないということにも、二人の関係が成就しないことへの含みを感じとれる。
アメリアが結局、ビクターとの別れを選んだ辺りで、黄金色の光は画面から退くが、ビクターがベニー・ゴルソンに会いにいく、最後のシークェンスでは、あの黄金色の光が再び画面を覆う。ビクターは、アメリアとの会話の中で「待つ」ことについて語り合っていたが、彼の父が「待ち」続けていた最後のサインをベニーから貰おうとするシーンで、ビクターは、演奏が始まろうとしているのでサインはしばらく「待つ」ようにというベニーの言葉に従う。画面の奥から射し込む強烈な照明が、ベニーの陰を浮かび上がらせる。
「待つ」ことは、膨大な時間を受け入れるということだ。ビクターが、父が待ち続けていた時間を自らのものとして受け入れたのと同様に、アメリアもまた、自分が恋人を待ち続けた時間を、最後に再び受け入れたのかもしれない。時間を受け入れるということと、他者を受け入れるということ。ビクターが、空港の面々との友情を得たのも、彼が空港で待ち続け、暮らしてきた、長い時間の蓄積がもたらしたものなのだ。
ただ、ビクターがエンリケの頼みを聞いて、ドロレスとの間をとりもつ件は、ビクターが諦めずに毎日申請を出す想いの強さと、エンリケの想いの強さとを重ねて描いたつもりなのかもしれないが、エンリケがドロレスに直接働きかける描写が皆無なので、人間ドラマとして成立していないように感じる。殆ど、昆虫を介した花の受粉みたいな状態。
即席レストランでグプタが必要以上に皿を回し続けるところは、いつもシニカルな彼の、密かな自己アピール欲が感じられて笑える。この爺さん、ビクターの武勇伝を尾ひれをつけて皆に語るシーンや、最後に空港で飛行機を足止めするシーンなど、舞台に上がって注目を浴びたがるエンターテイナー精神が見えて、ちょっと面白い。
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