[コメント] まわり道(1975/独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」の現代版を企図して製作されたという。
母性に包れ、自己を実現すべき契機を見出せず、他人に対しても本当には心を開けずにいるボンクラ青年。映画は現代のヴィルヘルムをそんなふうに描く。彼が自己実現を心の奥底で望んで旅に出たとしても、現代の旅は彼にそんな契機を与えてなどくれない。現代の旅はみずからの足で歩むことではなく、ひたすら車窓を流れゆく景色を眺めることでしかないからだ。その景色は何処までも景色に過ぎず、青年の自己を揺さぶり起こすような、青年が自己の魂の物語を見出すことが出来るような、そんな風景ではない。それと気付かずに社会から断絶された旅を続ける青年は、つまるところ何を得ることも出来ず、彼がみずからの旅を「誤った動き」でしかなかったと悟ることで映画は終わる。
『都会のアリス』では「物語を書く」とはっきり言えた青年が、今度は独り風景をまえに立ち尽くす。アリスのイエラ・ロットレンダーは10歳にも満たない少女でありながら、青年の旅の相方として立派に立って彼の物語を凌駕していったが、この映画の同伴者にはそんな相方がいない。聾唖者のミニョンを演じるナスターシャ・キンスキーは異様な存在で(*)やはり圧倒的だけれども、彼女は青年の守護天使的存在で、彼の物語を外へ向ってひらいていくような存在足り得てはいない。またハンナ・シグラ演じるテレーゼはもっとふつうの女性で、彼の(成熟した(?)世の大人からすれば未熟なものとしか映らないだろう)不満や鬱屈を抱擁して変容していくような存在ではない。もとより男性的な、つまりは社会的な自己実現の契機は見込まれていないのは、範となるべき父親的存在の不在からくるのだろうか。元ナチスのラエルテス老人(ハンス・クリスチャン・ブレッヒ)などは失墜した父権を物語ってもいるのかもしれない。
この監督の映画を観ていると、このような映画を日本人は撮れなかっただろうかと思ってしまう。映り込む風土と、語られた国家の歴史と、語られない個人の物語とをそこに物語っていくような、だが観念的図式に堕してしまうことのない映画。山道を歩き辿りながら上っていく長回しのシーンは、そういう場面であったと思う。
*)ディスコにいるところを監督が発見してスカウトしたとか。劇中の彼女は既にしてナスターシャ・キンスキー。スタッフの半数が惚れていたというのが素直に頷ける。触覚を想起させる、つまりはエロティックな美貌。表情が変容する瞬間がとても魅力的。
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