コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] コーヒー&シガレッツ(2003/米=日=伊)

飛び交う言葉。そうして言葉はスピードを増し、それが本来帰属していた主体/主題との関係を振り切り、空間と時間を超え、新たな主体/主題へと取り憑く。

日常会話(=おしゃべり)において、言葉はその字面の上での意味を失う。議論の場合のように、正確に言葉の意味を伝える必要はない。必要なのは会話そのもの、ある相手と言葉を交わすという行為そのものである。その際に、会話者たちが無意識のうちに注意を払っているのは、言葉の意味ではなく、相手の表情や声の震えから垣間見えるものである。それが、相手の話す言葉の意味となる。字面上の意味はそのための契機に過ぎない。

日常的な場面では、このような状況は常に起こっている。相手を罵倒するような言葉であっても、時としてそれは「つっこみ」という形で、相手との信頼関係の証明ともなる。しかし、一般的な映画の場合、言葉は常に物語を説明し、進行させるための役割を担い、会話までも不自然なまでに直接的な言葉で行われている。ジャームッシュの映画が、ありのままの日常を描き出しうるのは、彼が会話の本質、すなわち、会話においては言葉の意味よりも、その言葉が交わされている状況が重要であるということを理解しているからだろう。会話において如何なる言葉が発せられるかを決定しているのは、主体としての発話者ではない。むしろ、発話者は状況によって言葉を発するように強いられているのである。すなわち、発話者が会話を創造しているのではなく、会話そのものが発話者を使用して自らを成長させているのである。

この映画の中で行われている会話もまた、発話者に従属しているのではない。この映画全体を支配するのは「会話」であって、登場人物たちではない。最後の二つのエピソードには、突然、他のエピソードで語られた話題が再び現れる(コーヒーを飲んだ後に見る猛スピードで展開する夢、ニコラ・テスラの言葉の引用など)。最初にそれらの話題が語られるとき、それらは会話の流れから現れるべくして現れた。しかし、二度目に現れたとき、それらは、それらを語った発話者にとっても意味のわからない言葉として、すなわち、彼らにとって完全に外部からやってきて、彼らの口を借りて現れた言葉として話される。その言葉は、映画の内部を自由に行き交い、登場人物たちの口を自由に使い、現れる。ここから、この映画全体を貫くのは、「会話」、発話者に従属するのではなく、むしろ発話者を使役する「会話」であることがわかる。

そのような会話にとって、コーヒーやタバコは、様々な形において推進力となる。直接的には話題の出発点となるし、コーヒーやタバコを飲む時の沈黙は、会話のリズムを生み、あるいはその行為自体が一種のサインとなるだろう。酒ではなくコーヒーであるのも、酒が主体の生理的状態に働きかけ、陶酔によってその主体に力を与えるのに対して、コーヒーやタバコは、少なくとも主体の力を増大させることはないからだろう。それらは、中立的に、あるいはむしろ会話のリズムに介入することによって、会話そのものに対して力を与えうるのである。

愛煙家だし、くだらないおしゃべりが好きだから、星は甘めに。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)moot ぽんしゅう[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。