[コメント] いつか読書する日(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
そして何より「言葉」というものは、そんな人間の手で生まれるべくして生まれた手段なのかもしれない。そんなことを思った。
観る人によっていろいろな印象を与える、それだけ多くの入口が用意されている映画だと思う。個人的に言うと、何より面白いと思ったのは、(題材が題材だとはいえ)文字や言葉という「非映画的」とも思えるものを、あえて映画の中でメインの表現として扱っている、ということ。
新聞のスクラップ、牛乳瓶に差し入れた手紙、ラジオの投書ハガキ、パソコン画面、痴呆の男の頭の中の言葉のガラクタ、様々なメモ書きや書置き、そしていつまでたっても拙い俳句(川柳?)。それぞれがそれぞれに、その文面通りの意味以上のものを密かに主張している。確かにここには、小説でも舞台でも表現できない形で、「言葉」が映画の鼓動としていきづいていると思う。一番分かりやすいものとしては、DJが投書ハガキを見て、これは20代位の女性の書いたものだと看破するクダリなど。ある意味それも真実と言える面白さ。
とにかく全体を通して言えることは、「言葉」というものの性質そのままに、婉曲的で含蓄を多分に含んだ作り。それら全てが読みきれているかというと、個人的にはやや心許ないのだけど、日常の中の婉曲と含蓄の深淵の中に飲み込まれまいとするかのように、ストレートに感情が露呈する瞬間にハっとさせられる。ただ、それもあまりに刹那で、結局は何事もなかったかのように日常は不気味なまでに淡々と、その傷口を閉じていく。
10代半ばにして、美奈子はこの街で一生離れまいと決断する。そしてこの映画の中で数十年を経たところで自分には、この街自体が美奈子という女性の、まるで生き写しの双子のような存在に思えてならない。
最後に告白。分からないことといえば、やはり高梨の至福の死に顔。男が水の中で見たものはなんだったのだろう。その水の中で若かりし頃に拒絶をした何を、数十年を経て彼は受け入れたのだろう。おぼろげに分かるような気がしつつも、やはりうまく実感を伴った言葉として出てこない。やはり自分も「言葉」というものを操るどころか、その懐の深さに翻弄され続ける未熟者なのだろう(もしかしたら意識下で分かることを拒絶しているのかもしれない)。
(2006/6/4)
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