[コメント] ランド・オブ・プレンティ(2004/米=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
前半の間、この映画の有する何か錯綜した視点に戸惑いを隠せなかった。落ち着きのない映像と音楽、断片的なセリフ。今一つ全体が掴み取れない。しかし、それにもかかわらず、あるいは、そうであるからこそ、「9.11以降」が描かれているということが明瞭に読み取れる。見る者は判然としない疲労感を受けるだろう。けれども、映画は葛藤を孕みながらもやがて一つの道筋を見い出して行く。
監督によれば、「アメリカ人は、自らが世界の中心であると自負を持ちながら、実際は世界から隔絶されている(disconnected)のだ」という(DVD収録インタビュー)。アメリカの守り手を自らに課す伯父ポールは、機材で武装したバンの中からしきりに「連中」を監視し、「何をしているか分かっているぞ」と一人テープに向かって吹き込む。隔絶されている状態とは、この徹底してまなざす側の論理の中にいることに他ならない。
その伯父が「人生最悪の日」を味わう。彼の信念が崩壊にさらされる瞬間である。彼がテロ組織の「アジト」だと信じて踏み込んだのは、変哲もない民家であり、「化学兵器」だと信じていた箱の中身も単なる洗剤であった(突入時に流れるのは―歌い出しで途切れるが―デビッド・ボウイの“Looking For Water”。「水を探し求めて」→砂漠、中東、石油etcという連想。つまり、彼はあの一連の「対テロ戦争」へと赴いた訳である)。
終盤、離れ離れの人生を歩んで来た二人が、全く異なった様相を帯びたそれぞれの「あの日」と「悪夢」とを語り合い(「語り‘合う’」、つまり何より「‘聞き’合う」のだ)、「あの場所」に向けて旅へ出る。「建設現場以上の何かがあると思っていたんだが・・・」と戸惑う伯父に、姪は「声を聞くのよ」と優しく諭す。思えば、9.11は圧倒的に視覚的な出来事であった。あるいは、この映画の前半を覆う疲労感は、「見る」ことの過剰と「聞く」ことの欠如にあったのではないか(監視カメラで「見る」ポールと音楽を「聴く」ラナの対照)。「見る→理解する」という様式がもたらすあまりにも多くの誤謬・欠落。それに対してこの映画は、「そうではなく、聞くのだ」と説くのである。
驚くことに、この映画は、「あの場所」を見上げる(!)カメラで幕を閉じる。虚空を捉えるラストショットは、映画というメディアがあまりにも「視覚的」であり過ぎることを暗に批判しているのではないだろうか。視覚的な世界に視覚的なメディアで異議を唱える、というこの矛盾を引き受け、さらに「聞く」ことを訴える、そのためにこそ、あのショットでなければならなかったのだと思いたい。
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