コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ヴェニスの商人(2004/米=伊=ルクセンブルク=英)

リアリズムが、モダニズムが遥かに追いつけない領域。
kiona

作劇上は悪役に過ぎないはずのシャイロックに悲劇性を見出したのは近代そのものであり、良くも悪くも以降の上演史そのものがこのともすれば間違った批評史と距離を置けずに来ていることを考えても、また世の風潮に鑑みても、この作品だけに“中世ままの憎たらしいユダ公像と勧善懲悪”を強要するのは酷かもしれない。

或いは、下世話な話、そもそもパチーノありきの企画であったことは明白で、その発言権が小さかったはずはない。十中八九、彼が演じたかったのはワルモノたる中世シャイロックではなく、かわいそうな近代シャイロックだったはずなので、つまり、その辺に関する決定権がラドフォードにあったとは考えづらい。

というようにラドフォードを雇われ職人と見る色眼鏡で見てやると、むしろ、法廷シークエンスの重厚を見せきった後に、新婚シークエンスの優雅を堂々と持ってきた豪腕には目を見張るものがあった。

そして、あれだけ独壇場を織り成したパチーノ相手に一歩も引かないどころか、最後は取って食ったリン・コリンズ――向こうの女優の底力に、普段の自分なんかの感覚とはちょっと次元を異にしたものを感じ、ただただ豪奢な食卓を堪能している気分だった。

もしくは、自分は、シェイクスピアに対しては、現代の確立された(ともすれば小さくまとまった)作劇論を押し付ける気にはなれない。なぜなら、それは近代が中世から豊穣な素材(或いは、叩き台)と時間をもらってようやく見出した、素材ありきの料理法に過ぎないと思っているからだ。リアリズムもモダニズムも無かったのだ。そして、現代からその尺度のみで測れば失われるものがあまりに大きい。なかんずく、その台詞は、作劇に侍すると考えるには余りに濃密である。もとい、台詞こそが核であり、台詞が節々に宿す人間のリアリティーこそが、リアリズムも、モダニズムも遥かに越える宝なのではないか。

その限りにおいては、シャイロックに悲劇を見出したがった近代の嗜好を、自分は否定しきるものではない。この映画においてパチーノは原作の作劇を超えた悲劇をいかんなく醸し出している。しかし、彼は一言たりとも原作に無い台詞は発していないのである。

或いは、ポーシャのアクロバティックなキャラクター。確かにありえないんだが、そこをぐっとこらえて、彼女は何のために男装してまであの場に赴いたのか?なんてことを考えてみるのだ。原作にこんな台詞がある。

サリーリオ「ヴィーナスの車を引く鳩も、新しい愛の契りを結ぶためなら勇んで飛んでいくが、すでに交わされた愛の誓いを見守るためなら、その十分の一の早さになるものさ」

恋の成就に有頂天になっていた女の子が、ひとたび男と結婚すれば、瞬く間にじっくりとその男を吟味する冷静さを身に着け、気がつけば大人の女に成長しているのだ。

それは、テーマの観点から考えれば、確かにシャイロックの悲劇と何の相関もしていないかも知れない。或いは、シャイロックをただの悪者とすれば、ヒロインの活劇として楽しめたかもしれない。だが、一方で、シェイクスピアの上演や映画だけは、別々のテーマを担った人物が混在していていいと思うのだ。なぜなら、悲劇のシャイロックも、アクロバティックなヒロインでありながら女の子たりえるポーシャもこの上なく魅力的なのだから。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)イライザー7[*] セント[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。