[コメント] 生きる(1952/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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渡辺さんが哀れでならない。
彼が人生を楽しめない人間であることに、30年に渡って人生を浪費してしまったことに、哀れさを感じる。「いのちみじかし」なのに。公務員生活ってのは単なる表層的な理由なんだ。最期は必死で自分が「生きる」という意識認識を抱いて生を送った、けれどもそんな微かな余命期間だけでは帳尻は決して合わない、と思う。生命の危機に堕ちないと動き出そうとはしなかった渡辺さんの脳味噌が、ココロが哀れだ。ゴミのような30年が、哀しい。彼の如く文字通り命を賭して生を享受しようとする人間がいる。一方で空気でも吸うように、食物でも摂るように容易く生を享受する人間がいる。
楽しめるヒト、楽しめないヒト。
気付くのが遅すぎる。
残酷なまでの対比。職場を辞めていった女。渡辺さんの対極に位置する人間。つまり人生を楽しめる側の人間、更に言うなら「生きる」側の人間。一番幸福な人間だ。若い時分から人生を謳歌できて。渡辺さんは人生の最後の切れっ端しか旨味を味わえなかったというのに。もし、「人生の充実度」が機械のようにポイント化できたなら・・・彼女と渡辺さんの間には10億ポイントもの隔たりがあるだろう。その莫大な差を縮めるには渡辺さんに120年の寿命があっても足りないだろう。不公平だ。理不尽だと分かっていても「渡辺さんは30年を無駄にしてしまったんだよ!」と怒鳴りつけたくなる。彼女だって人生を楽しもうとして人知れず昏い努力をしているかも。なんて。まさか。まさかまさかまさか。
そんなの先天的な個人の資質によるものだ。
足が長い短い、力が強い弱い、生を楽しめる楽しめない。みんな同じことだ。
けれども、職場に学校に彼のような(胃癌以前)人間がいたら、自分は関わらないようにするだろう。渡辺さんは決して「一緒にいたくなるような人」ではない。彼と一緒に時間を過ごしても全然楽しいはずないもの。要するにツマラン人間だ。《人生を楽しめないヒト》は、ツマラナイ。そんな人間と関わっても、自分にとってマイナスになるだけだ。反対に、《人生を楽しめるヒト》は一緒にいて面白い、と思う。というか、生き方が巧い。やり方が巧い。ツマラナイ人間ばかりの公務員生活を捨てて別の職場に移ったあの女のように。そういう「人間の取捨選択」が巧い。小賢しいほど。小賢しく。
自分にとって、やはり一番幸福に映るのは、あの女だ。人生楽しんで、色々経験していくのだろう。渡辺さんは生きるのが下手糞だったんだ。巧妙に生きて、幸福になれ。
‘That’s just the way it is’ (そんなもんさ)
‐T.Shakur
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