[コメント] スタンドアップ(2005/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
今でこそ、セクハラというのは普通に通用する「禁止行為」だが、ほんの十数年前までは、そういう概念さえなかったのは事実である。そういう所からはじまって、あらゆる分野で女性の社会進出が広がる中で、女性に対する性的迫害は許されない行為だという通念が、裁判やその他もろもろの運動を通じて確立し、そういう行為を「セクシャル・ハラスメント」と呼び、「禁止行為」だというところまでやっときたのである。
そしてその黎明期において、とりわけ、一番最初に「ノー」と声をあげた女性の苦労、葛藤というのは並大抵のものではなかったろう。この映画にあるように、少しくらい嫌な思いをしたって黙っていた方がよい、あるいは、嫌なことだけど裁判までするほどのことではない、という「ハードル」、今日ではその「ハードル」をクリアする方法やその手本となるものはあるが、そういうものがない中でそれと格闘したのだから、まさに映画の世界を上回るようなドラマチックな出来事や感動があっただろう。
ただ、この映画を見て、それが感じられたかとなると、どうも今ひとつなのだ。その典型が、息子がレイプされて母が自分を身ごもったことを知った後の展開である。家に帰らず、古い時計をいじってばかりの変なおじさんのところへ行き、おじさんから友人だからといわれて古い時計をもらって家に帰る。
まあ、悪い話じゃないし、どちらかというとハートフルな良い話、なのだろうが、なんだかものすごく唐突なのだ。何でそうなるのかが、さっぱりわからないというか、そこにいたる伏線が弱いから、出来レースでも見てるみたいで、なんかしらけてしまう。
最後の裁判で次々と立ち上がるシーンにしても、立ち上がった人間にはみな、一人一人のドラマを背負っていたはずなのだろうが、それが感じられることなく立ち上がっては、せいぜい「めでたしめでたし」という感想しかない。
映画という限られた時間の中で、一人一人を描く群像劇としての方法をとらずに、一人の女性を主人公にすえているのだから、そういう一人一人のドラマは端折らざるをえないのかもしれないが、それならそれで、もっと主人公の内面を掘り下げるべきではなかったか。
「自分で働き、家族を養っていくという当たり前のことを、なぜ、自分はしてはならないのか」という、労働組合の集会での彼女の発言は、それなりに迫力があるし、まっとうなものだと思うのだが、その彼女の思い、生き様が、この映画を貫く背骨になりえていないのではないか。
ちょっと残念な気がする。
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