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[コメント] デルス・ウザーラ(1975/露)

橙(暖色)と青(寒色)の光によるモノクロームとも呼ぶべき単純化された画面の強度がピークに達する、第一部の終盤。その抽象化され純化された生死のドラマは、この映画自体の存在価値を確立させている。惜しむらくは、まさにこれがピークだった事か。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







橙と青の対比の一つの極みは、太陽と月が同時に空に昇っている、空の色が二色に分けられた、何か超現実的な趣きさえある、あの映像。

デルスとアルセーニエフが二人きりで氷原に立つ光景は、まるで他の惑星に降り立ったかのよう。この、氷の白さと穂の黄色、太陽の光の他には色彩も無い世界。その中で、彼らは嵐に見舞われ、来た方角を見失う。夜と共に死が迫ってくる。デルスの発案で穂を必死に刈る二人。その姿は黒い影に包まれ、足許では氷がギラギラと輝いている。徐々に夜が近づき、視界が暗くなっていく様は、色彩が奪われていく事が死と直結し、色彩のグラデーションの変化そのものが、生命のドラマと化している。穂を刈る二人を捉えたショットで、日光がカメラに強く突き刺すたびに高音が発せられる、音楽的演出。デルスが、今にも倒れそうなアルセーニエフを「カピタン(隊長)!カピタン!」と呼ぶ声の悲痛さ。

一夜明けると、アルセーニエフが気を失っている間にデルスが拵えてくれていた、穂で作った即席のテントには、雪が沢山積もっていて、自然物を素材にした奇妙なオブジェのように見える。アルセーニエフの部下が遠くで鳴らす銃声が聞こえ、アルセーニエフもそれに応えて銃を撃つ。銃声の遣り取りだけで互いの存在を伝え合う、この簡素な遣り取りの、なんという安堵感。

この後も、一行は厳しい自然の中を往く。氷原に真っ赤な日の光だけが濃く輝き、黒い人影がその上を歩く映像の、息詰まるほど強烈な、簡潔な色彩美。こうした場面での、空に円く燃える日輪のインパクトは、『2001年宇宙の旅』のそれくらいしか比べられるものが無い。

第一部は、一行とデルスの別れで締め括られるが、デルスと離れた一行が歌う猟師の唄は、冒頭、森の中でふざけて歌っていたのと同じ曲。だが今度は、猟師への畏敬の念を込めた歌声だ。歌詞の「猟師よ、獲物は天から降っては来ないぞ」という言葉が担う重みに気づいたように、ふと足を止めたアルセーニエフが、デルスともう一度名を呼び合う。こうした簡潔な遣り取りの美しさは、この映画の素朴かつ峻厳な作風の賜物だ。もうこの時点で、映画一本分を見たような充足感がある。尺としては、本当に半分の所にしか来ていないのだが。

続く第二部も、冒頭の、流氷が砕け合う印象的な映像から始まるが、今度は色彩に緑が加わり、画面の温度が上がっている。第一部が、あのような凄まじい純度と強度の映像を見せつけてくれたのだから、と、第二部にも再び映像的驚異がやって来るのを期待してしまうのだが、その思いは肩透かしを食らう事に。

確かに、デルスが危機を迎える川の煌めく青は美しいし、季節が秋になり、草が緑から黄色へと変化して、雪原にまた趣向の違う色彩が散りばめられるのにもハッとさせられるのだが、画面にあの第一部終盤の凄まじさが顕れる事は、もはや無い。むしろ、老い衰え、森で生きていけなくなったデルスがアルセーニエフの自宅に招かれた後のシーンでは、室内の、狭くて直線に囲まれた、全くの去勢された世界が現れる。

かつては焚き火の前で誇り高い表情を見せていたデルスも、暖炉の隙間から僅かに覗く赤い火を、茫然と見つめる日々を送る。水を売り、薪を売る人を「悪い人」と呼んで叱る彼、町中にテントを張りたいと言い、鉄砲を撃ちたいと言って、町ではそれらは禁じられていると言われても、全く意味を理解出来ない彼は、もう、聞き分けの悪い幼児のような、無力で愚かな存在でしかなくなってしまっている。

遂に家を出る事にしたデルスに、「目が悪くても標的に当てられる」と最新式の銃を渡すアルセーニエフ。結局、この恐らくは高価なのであろう銃を狙った強盗に、デルスは殺される。これはもう、強盗に殺されたというより、自らの野性の生存能力と、それに基づく矜持を失ったという事実、更には文明の論理という、二重の否定を受けて死んだのだと言うべきだろう。

アルセーニエフと共に、生死を賭けて嵐に立ち向かったデルスだが、半面、火や水に加えて風をも「人」と呼び、畏敬の念を示していた。それをソ連兵らが笑っていると、一陣の風が吹く。彼らの背後を流れる川と、焚き火の炎、そして風。自然のエレメントがデルスを包んでいるような構図だ。

この風を初めとして、画面のフレーム外、或いは遠景の世界が、デルスの仲間として描かれている。彼が、死んだ妻子の為に食糧を焚き火で燃やして捧げる場面での、彼が「あそこに家があった」と指さす暗闇や、フレーム外に流れる煙。彼の歌に応えて鳴く鳥の声。太陽や月までも「偉い人」と讃えていたデルス。森で虎に遭遇しそうになった時も、「虎よ、何を欲しているんだ」と、姿を見せぬ相手に呼びかける。デルスは、常に遠くの自然へと呼びかけていた。彼は最初の内はソ連兵たちに嘲弄されていたが、そのソ連兵らをも包み込む自然と一体化しているデルスは、偉大な男として映じる。だからこそ、町に招かれ、部屋の中で四囲を壁に囲まれた彼は、あまりにも小さく見えてしまうのだ。

デルスは一人、自然の中で死んでいった方が幸福であったのか、それとも「カピタン」の友情に殉じるように死んだ事に、本人は満足していたのか。彼の死に様は、自身が否定していた筈の文明の利器に頼ろうとした事への報いなのか。それとも、やはり最後まで猟師としての生き様を貫こうとした、名誉の死なのか。デルスの遺体が無造作に埋められた盛り土に、彼が遺した杖を突きさすアルセーニエフ。その光景に、過去の黒澤映画の名ショットを想起させられた。盛り土に、一本の刀が挿された、あの映像だ。

黒澤映画にしては、妙に人物の表情への寄りの画が少ないのが気になるが、やはり外国人を撮っているという事情が働いての事なのだろうか。黒澤は、俳優の表情や演技のニュアンスにかなり神経質にこだわる性格だったようだが、外国人の場合、その表情のニュアンスに、黒澤には充分に理解し切れない部分がどうしても残る筈。だから、「この表情を見よ!」という確信に充ちた画面を出す事に躊躇したのかも知れない。その事が却って、一歩退いた所から人々の営みを観察しているような、本作独自の画作りを生み出したように思う。

ただ、今までのような、三船を筆頭とした顔面力のある役者がいなくても、ドラマが描け、更には、格別ダイナミックな展開を行なわずとも、一つの世界観が描けるのだと本作で自信を得た結果が、『影武者』での役者の顔の薄さや、どこか傍観的な画面作りなのだとしたら、ちょっと悪い方に作用してしまったかな、と考えずにはいられない。

それにしても、この映画に全く退屈しなかった事が、自分でも意外。大部分は地味な画の連続で、台詞も素朴。だが最初から一貫して淡々としているので、そういう映画なのだとすんなり入り込めたし、新奇な出来事で驚かせようという下心が微塵も感じられない、その緩やかな時間の流れが、いつしか心地良くなっている事に気づく。先に『2001年宇宙の旅』に言及したが、これの冒頭の、ヒトザルのシークェンスが、台詞も無いのに、自然界の威容と生死のドラマで、映画として成立していたのと、どこか似ている気がする。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)づん[*] uyo けにろん[*]

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