[コメント] 隠された記憶(2005/仏=オーストリア=独=伊)
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ビデオを撮った「犯人」は無論、ダニエル・オートゥイユのアルジェリアに対する無意識の罪悪感である。アルジェリア人のモーリス・ベニシューと息子のワリッド・アフキはその無意識の具現化だ。そうでなければ、この二人の具体的な犯行ということになる。ハケネはこの解釈も妨げていない(ラストから、オートゥイユの息子が利用されたという理屈も成り立つから)。観客に委ねます。しかし後者で解釈する観客をハケネは冷笑するだろう。
ジュリエット・ビノシュに問い詰められてオートゥイユはとんでもないことを告白しはじめる。「61年10月17日、民族解放戦線がアルジェリア人にパリでのデモを呼びかけた。当日、警視総監のバボンは200人のアラブ人を溺死させた」。とんでもない事件である。日本なら吹田事件みたいなものだろうがもっと酷い(こういう自国の「恥」を外国人監督に撮らせて恬淡としているフランスはやはり文化大国である。『万引き家族』程度に拒否反応を示す文化後進国とえらい違いだ)。
これにオートゥイユ自身のベニシューを陥れた幼少期の罪悪感が絡む。息子の雲隠れに狼狽えたオートゥイユがベニシュー親子を逮捕させる非道さを、オートゥイユ自身が気づかぬはずはあるまいし、ベニシューの強烈極まりない自殺は、オートゥイユの無意識の意識化への鉄槌に他なるまい。終盤、会社に押しかけたアフキがオートゥイユに告げる。「疚しさとは何かと思っていました。これで判りました」。これを語るべきは、本当はオートゥイユ自身であるはずだ。それを(神のような)アフキに云わせている。だからやはり、アフキはオートゥイユの罪の具現化であった(なお、この「疚しさ」をニーチェ流に解するのは時代遅れというものである)。
高級住宅なのに玄関が狭く常に路上駐車に遮られているオートゥイユの住まいは変ちくりん。冒頭これを眺めるビデオもオートゥイユ自身の視線、ということに帰納的になる訳で、滑稽な印象がある。ラス前は子供時代のベニシューが施設へ強制的に連れ去られるショット、ラストはオートゥイユの息子が通う学園の穏やかな風景。このふたつもまた(ビデオのような)オートゥイユの主観ショットと見るべきだろう。この残酷な対照は『コード:アンノウン』の反復であり、ゴダール『ヒア&ゼア』の精神が再び継承されている。『コード』に続いて二度目のカンヌ人道賞が与えられたのは当然に思われる。
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