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[コメント] 嫌われ松子の一生(2006/日)

ゴミおばさん松子の穢れた一生が、或る視点から見つめ直すことで、女神のように燦然と輝きだす瞬間は素晴らしい。顔が出てきただけで瞬間的にキャラが理解できるキャスティングも見事。だが、中谷と中島の組み合わせは不幸だった。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作は未読だが、ゴミ屋敷のおばさん、あるいはあの「お引っ越し!」のおばさんのように、なんでこの世にはこういう人がいるのかなー、と僕らが素直に疑問を感じてしまう類いの人たちには、ひょっとしたらこんな背景があるかもしれないよね、という、ちょっと面白い角度から人生を切りとった物語だと感じた。

だが、この映画に関して言えば、所詮はゴテゴテの装飾の中で人の不幸をこねくり回した、「きれいなジャンク物の商品」でしかない。

辛い時代のエピソードがミュージカルシーンとして軽やかに流されていくのには疑問を覚える。音楽が明るかろうと、映像が悲惨であれば却ってコントラストが感じられて効果的だったのだろうけど、映像までカラフルかつスタイリッシュにしてしまったら、一体何を伝えたいのかさっぱり分からない。一人の女の愚かさも孤独も不幸も裏切りも貧乏も全て、皿回しの皿のような小道具にすぎず、猿回しの猿ほどにも愛や敬意を注がれていないように見える。

中谷美紀はこの役を切望していたようだけど、少なくともこの演出でこの人物を演じるに当たっては、完全なミスキャスト。ソープでも刑務所でも、ミュージカルシーンは本職のBONNIE PINKやAIに完全に置いてきぼりにされており、松子は場面の中心軸になり得ていない。作品の肝であるミュージカルシーンでヒロインが埋没するというのは本末転倒もいいところだ。

元々、中谷美紀は、音楽好きといっても、環境音楽のパイオニアとして知られるブライアン・イーノや、ミニマル・ミュージックの巨匠スティーヴ・ライヒといった音楽家を好むタイプで、坂本龍一プロデュースによる彼女自身の歌でも、その歌声は囁き系の静かなもの。まぁ氷川きよしのファンだとか聞いたこともあるので、ベタな情緒を歌に乗せるのにも抵抗感は無いのかもしれないが、本人にその種の表現力があるとは思えない。劇団ひとりを待ってウキウキと歌い踊るシーンでは、監督から「笑顔が気持ち悪い」と罵倒されたのも分からぬこともないな、と。この映画を観る前にその話を聞いた時には、酷いこと言うな、と感じたのだけど。要は、キャラ的に無理しているのがありありと見えてしまうのだ。

中谷の演技は、真面目に誠実に演じているのは伝わってくるのだが、それが伝われば伝わるほどに、松子という女の愚かさや思い込みの激しさや滑稽さや愛情乞食ぶりや猪突猛進や不幸を呼び寄せる負のオーラやらの生々しさが遠ざかってしまう。「ああ、真面目に、体当たりで、自分に合わない役を演じているな」と、松子というよりは中谷個人の努力や痛々しさだけが際立ってしまう。

中谷が絵と文を制作した、『だぁれも知らない』という小さな絵本がある。そこに、皆から、汚い、臭い、と嫌われるお婆さんの話が出てくる。中谷自身の視点はたぶん、この絵本の語り部である少女(だったかな…?)の方に近いものであり、決して、松子のような末路を辿る女に心の奥底で共鳴したわけではないのだと思う。「自分はこんな人生を送ることはできないけど、それだけに、この盲目的な力強さに魅入られてしまう」といった感情で松子役をやりたがったのではないか。正直言って、もうその時点で無理があったのだと思う。なんだかさっきから憶測ばかりでものを言っているけど、この映画を観た印象は確かにそういうものだった。普通にリアリズムの演技で役に没入できればよかったのかもしれないが、歌って踊りながら、自分とは真逆のベクトルの方へ演技力を注ぎ込むのは、ちょっと無理があったのではないか。

映像のカラフルさは、どぎつくなる寸前で抑えた絶妙な色彩が、目から沁み込んでキャンディのような爽やかな甘さを感じさせてくれる。このテイストはどうしても蜷川実花の写真を連想させられる。彼女自身が監督した『さくらん』以上に蜷川実花的な映像と言えるほどで、咲き乱れる花々のインパクトが強烈。だが、この花々があたかもトイレの消臭剤のように、松子の物語からその汚辱と悲哀の生々しさを殺いでいく。松子じゃなくて花子ならまだしも、あれほど百花繚乱にする必然性があったのかな。

物語をスピーディに展開するにあたって、役者の顔だけで瞬間的にそのキャラクターが了解できる適材適所な配役が、この映画の最も優れた点。唯一ここだけは評価したい。爽やかに笑って立っているだけでキャラとしての記号性が一目瞭然な谷原章介、幸薄そうだが親から可愛がられそうな市川実日子、額のホクロから針金みたいな毛が生えていても違和感皆無の甲本雅裕、いかにも小悪党な竹山隆範、髭を付けただけで胡散臭い芸術家に見える宮藤官九郎、劇団ひとりの、いかにもサラリーマンをしながら文学をやっていそうな、堅実さとアーティスト志向の同居した顔、彼の妻である山田花子の「これなら勝てる」(by.松子)顔や、荒川良々の人のよさそうな顔、彼が、松子が塀の中にいる間に一緒になる女の顔と彼のお似合いっぷり、 一瞬しか映らない土屋アンナの女囚っぷり、木野花の無表情な看守っぷり、ゴリや伊勢谷の持ち前の顔つきとメイクの相乗効果、等々。

尤も、こうしたキャラの記号的な使い方では、情報を的確に伝えることはできても、その内面を掘り下げる技量の無さには、はぁぁ、と溜息。それと、これだけ見事なキャスティングをしていても、肝心の松子役の中谷美紀がミスキャストとしか思えないのは致命的。彼女を殴り殺す中学生もなんだか牧歌的な印象。

唯一、感情移入できたのは、伊勢谷が獄中で神父の言葉を聞く場面。「神は愛である」という言葉の意味を問う伊勢谷と神父の問答はこの映画の白眉。「あなたは、誰かを心底憎んだことがありますか。その人たちの為に、心の底から祈ることが出来ますか」「…出来ません」「それでいいのです。人の心は弱いもの。憎むべき敵の為に祈るなんて、できるものじゃない。しかし、神に縋れば、それができるのです」。そして「許されざるものを許し、そして、愛する」というその愛が、松子が自分に与えてくれたものだと気づく。伊勢谷の「松子は、俺の神だったんです」という台詞と、彼の眼に映った松子の姿のフラッシュバックによって、それまでは不幸と愚かさの塊のようにしか見えていなかった松子の価値が逆転する。そもそも松子の転落人生の最初のきっかけは彼がついた嘘にあったのであり、いわば彼の罪を肩代わりして延々と不幸を重ねて生きてきたわけだ。その不幸を経てなお彼を愛する。ここに至って、世界で最も汚辱に塗れたバカ女、松子が、世界を肯定する存在として映るのだ。

そして終盤、ミュージシャンになるという目標も見失ってギターを埃に塗れさせていた瑛太が、松子の幻影を見つめながら心に思う台詞――「もし神様がいて、それが松子おばさんのように、人を笑わせ、元気づけ、人を愛し、でも自分はボロボロで、孤独で、ファッションも全然イケてない、そんな神なら、信じてもいい」。伊勢谷と彼、この二人の男が松子の一生に当てる光があってこそ、この映画は成立するのだ。

松子の川尻という名字や、劇中に何度か挿入される川面の映像からして川の象徴性は明らかで、松子はいわば彼岸から流れ来るゴミを一身に受ける女。その松子の生涯を、彼女に対してほぼ白紙の状態で追っていく瑛太が川の前にいる映像は、彼が片平なぎさのサスペンスドラマに自分の生涯を投影しているのと対応して見える。つまり彼は、既存の物語を受動的に受けとる立場の人間で、松子が自ら波乱万丈の物語に突進していく生き方とうまくコントラストを成している。

川の象徴性ということではやはり、最後の空撮はとても心地よかったのだが、本編で松子の生涯がもっと出口なしの暗く重い印象を与えてくれていたなら、この空撮の躍動感や解放感が際立って、回想シーンにも感慨があったはず。単に空撮が気持ちいい、という以上のものは感じられなかった。

サスペンスドラマの映像に登場人物を放り込んで見せて、自らの身を省みさせるような演出は、監督が『夏時間の大人たち』でも用いていた手法。あちらの方には4点を付けたので、この映画の評価とは全く異なるのだが(実際、演出も殆ど真逆と言っていい)、何か、清濁併せ呑んで、静かに生を肯定したいというテーマ性、群像劇によって、幾つかの視点と時間軸を交錯させ、人の一生というものを浮き上がらせようとする姿勢には、共通性がある。

(評価:★2)

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