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[コメント] 風の中の牝鶏(1948/日)

屋外で弁当を食べるシーンなど美しい場面はあるが、やはり私はこの結末には納得がいかない。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







というのも、この作品の終盤では小津映画史上最大の暴力が行使されているのだが、それにもかかわらず人が死んでいないからである。と云っても、私は階段から落ちた田中絹代が死なないのはおかしいと云っているのではない。死ななければならないのは佐野周二のほうである。

小津の映画においては、暴力を行使したものは死ぬ運命にある。『東京の女』の江川宇礼雄しかり、『宗方姉妹』の山村聰しかり、『東京暮色』の有馬稲子しかり。だから小津映画史上最大の暴力をふるった佐野が死なないのはおかしいのだ。

などと云っていると「いくらなんでもお前は小津が小津であることに囚われすぎだ」という声が聞こえてきそうで、それは自分でもそう思うのだが、そういう思考回路になってしまっているのだから仕方がない。勘弁してください。

しかし、さらに「じゃあ『出来ごころ』はどうだ。坂本武は暴力を行使したが死ななかったじゃないか。『浮草』の中村鴈治郎も。それに『青春の夢いまいづこ』はどうだ。これなんてもう明確なハッピーエンドじゃないか」と問い詰められると、私は、うっ、と答えに詰まってしまわざるをえない。

えーと、んじゃあ、こういうことでどうだ。「小津映画の中で暴力が行使されると、『別離』がもたらされる」。『出来ごころ』も『浮草』も暴力の後に別離が訪れるし、『青春の夢いまいづこ』でも、斎藤達雄田中絹代が新婚旅行に旅立つという形で江川宇礼雄らと別離する。先の『東京の女』『宗方姉妹』『東京暮色』ではもちろん「死」という形の別離がもたらされている。

で、この『風の中の牝雞』だが、「小津映画の中で暴力が行使されると、『別離』がもたらされる」という説に当てはめてもやはりおかしい。別離どころか、佐野の暴力の後で佐野と田中は抱きしめあってしまうからだ。

そこで次のような解釈が生まれる。すなわち「『風の中の牝雞』の暴力が別離をもたらさないのは、それが死者の世界における出来事だからである」というものだ。 〈暴力→別離〉という小津的法則は生者の世界においてのみ有効で、死者の世界はその範囲ではないのだ。だが、どうして『風の中の牝雞』が死者の世界だなどと云えるのか。

まず佐野に関して云うと、それは、いまだに復員してこない佐野の写真に向かって話される田中の台詞が「早く帰ってきてほしい」というその内容とは裏腹に、まるで死者に対して話しかけているかのような響きを帯びているからであり、復員してきた佐野もまるで幽霊のようにしか見えないからである(佐野が幽霊であるかどうかは別にしても、「幽霊のように不気味に見える」演出がなされていることは認めていただけると思います。たしか黒沢清も「『風の中の牝雞』には幽霊ばかり出てくる」といったことを冗談交じりに云っていたことがあるように記憶しています)。そして最後の階段落ち。あれは現実的に云って、田中は死んでいてもおかしくない。むしろぴんぴんしているほうが不自然である。

つまり『風の中の牝雞』のラストの抱擁とは、幽霊佐野によって階段から突き落とされた田中が死者となって、死者の世界でふたたび佐野と「出会っ」たことを意味しているのだ。そう考えればこの結末にも納得がいく。

……などということをさすがに私も本気で思っているわけではないけれども、以上のような解釈をまったくナンセンスなものとして一笑に付すことができないほど、この作品には一種の禍々しさのようなものが宿っている。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)寒山拾得[*] ぽんしゅう[*]

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