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[コメント] 風の中の牝鶏(1948/日)

サイレント仕様の小津映画の完成型
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







浮草』を除けば、小津最後の下層庶民ものになるのだろうか。坂本武も出ているから最後の喜八ものと呼んでも不自然じゃない。なかでも背景に同じガスタンクを持つ『東京の宿』が強く想起される。だから終戦直後の映画、という気が余りせず、戦前も戦後も共通した貧困の嘆きが描かれていると感じられる。技巧としても、サイレント時代から積み重ねてきたものが本作で完成型に達している。以降はその筋のファンをこれほど派手に喜ばせてくれることは少なくなるから。

田中絹代が「決心」をする件、バストショットと鏡に映ったほぼ同じバストショットが交互に映し出され、最後に絹代の絶望が音もなく、ただ手と顔だけで表出される、ここはまるでリリアン・ギッシュのような強度がある。「事件」のあと挿入される、野原に横倒しになった天地の抜けたドラム缶のショットがまたすごい。同じ形状なので、まるで背景のガスタンクが横倒しになったような具合でギョッとさせられ、絹代の心情を何よりも強烈に伝えてくる。この手法、『東京の宿』を撮り終えたあとでふと気付き、しまった、いつか使ってやろうと小津先生、ずっと頭の隅にあったのではなかろうか。

クライマックスの階段落ち(作中では梯子段とある)も抜群、殆ど真っ逆さまで、キートン以来のサイレント映画の体当たり演出の極めつけと思う(小津唯一のスタントらしい)。この階段、まるで民家のなかに峠があるみたいで悪夢のよう、見るだけで剣呑で、当時の安普請はこんなものあったという点リアル、浜田辰雄は本作で毎日の美術賞を取っているが当然の誉だ。蓮實重彦に、小津は階段を撮らない、という有名な評論があり、意識して観ていると本当にそうで、二階の私室の浮遊感がこれにより際立つ(本作の娼館もそうだ)のだが、本作は多分唯一の例外(蓮實先生は確か、何故かこれに触れていないが)。一階と地続きの、喧嘩が筒抜けの長屋所帯を描くためでもあっただろう。

転落のあと、佐野周二は絹代に近寄らない。普通の映画なら降りて行って抱きかかえるだろうに、ただ上から大丈夫かと声をかけるだけで二階に引っ込んでしまう。「気持ちが落ち着いてくれないんだ。何か燻っているんだ。イライラするんだ。脂汗が出てくるんだ。よく寝られないんだ。怒鳴ってみたくなるんだ。自分ながら如何にもならないんだ」。佐野の告白に、私の父親世代の道徳観を垣間見る思いがする。小津の描く男性はしばしば短気で、説明できない屈託を抱え込んでいる。本作の不貞は比較的判りがいいにせよ。

だから突然に夫婦の結束を謳う収束は無理矢理感があり、本来感情に打ち勝つ理性とはこういうものだとは思うのだが、この無理矢理感は付け焼刃の戦後民主化を叫んだ当時のアイディア映画とよく似ており時代を感じさせ、阿吽の呼吸の沁みついた小津世代の邦画において声に出す宣誓にはいかにもぎこちない。しかしさすが小津、ラストの佐野の背中で合掌の形を取る絹代の両の手の力強さはどうだろう。これもまたサイレント流儀、科白を超えたダイレクトな画でもって、それこそ無理矢理に観る者を納得させてしまう。

勝鬨橋の望まれる河原で佐野と文谷千代子の語らう件もまた素晴らしい。ここはサイレントというよりも現代的で質感に優れており、川が望まれるロケーションとリズムのよいカット割りが成瀬を想起させるショット。あの不況下、娼婦に簡単に職があったとは思われず、楽天的に過ぎるのが欠点(そういえば、貧乏所帯に戻ったばかりの佐野に、子供の治療費に相当するだろう娼婦に払う金があるはずもなく、これは作劇上のミスだろう)だが、ここで呼び出しを待っているという文谷の寂しい習慣が心に残る。

※伝言:ぽんしゅうさん、あらすじ訂正ありがとう。

(評価:★4)

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