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[コメント] 東京物語(1953/日)

いいですか、最近の映画がやかましいことに気づくでしょう。夫という他人の親をここまで愛せますか?もう日本にはない愛情映画。これが日本人だったはずなのに。どうしたニッポン!
chokobo

勿論、私がこの映画を見たのは随分大人になってからですが、その時の印象と年々微妙に変化していることを知る。このシネスケファンの多くが”日本の”という形容をするが、その通りで、日本映画のしかもホームドラマとしての基礎であるこの映画をもって時代の移り変わりに見事に浸透していることを(あらためて)認識するのである。

時代は思う以上に複雑化している。幼い頃に見た小津映画は他人事であった。しかし自分自身が齢を重ね、妻とそして子と、あるいは親という存在が重く重くのしかかる(というとおおげさかもしれないが)頃になると、かつて見たあの小津映画は、自分にとって趣を大きく変えるものとなる。そして子供らの成長に合わせ、自分自身が老いを迎える頃、またこの映画の持つ意味が大きく自分にとって変化してくるのだろう。それを思うだけでこの作品の普遍性に思いを焦がれるのだ。

かつて日本は、どの街どの国でも親と子、先祖をうやまい親と子を養うということが当たり前とされてきた。これは農耕民族の宿命であり、全てである。それを「東京」という風景と時代の変化に、この映画は鋭く切り込んでいる。「東京」というステータスをここでは淡々と残酷に描写している。そしてそこには小さく戦争という傷跡も残しつつ・・・。

家族の背景や物語はこれまでも多く作られてきたものだが、この映画を基点に小津作品の系譜は禅のような”静寂”をうまく使っている。”静寂”こそがこの映画のアイデンティティなのだ。古い映画を見に行くと「ジーッ」という雑音を耳にするだろう。この映画ほどその音が染み入る映画はない。静寂と雑音。この空気感が小津の最大の武器だ。

コントラプンクト効果に言われるまでもなく、アメリカ映画の影響多大なるものは音が多い。音あるいは音楽の効果は悲しいシーンに悲しい音楽を必ずしも奏でるものではあるまい。黒澤が『酔いどれ天使』で見出した「カッコーワルツ」の受け売りだが、特に小津のこの自然体な一段上がった三和土の上の家族風景などは、見せるだけで十分納得させられる美しいもので、そこに不必要なまでの音あるいは音楽など必要ない。

決して日本映画が必ずこうでなければならないというものでもないが、かような映画がしかも映画館で上映される機会は果てしなく少なくなることだろう。むしろ’70年代のテレビドラマが幾ばくかこのモチーフを踏襲していると思われるものの、21世紀の今に見ることは皆無である。

どうしたニッポン。温故知新などという愚鈍な物言いをするつもりはないが、決して時代を失わない映画がずっと昔の日本にはあったということぐらいは理解しても損はあるまい。

(評価:★5)

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