[コメント] ホワイトハンター ブラックハート(1990/米)
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主人公ウィルソンは「持てる」奴である。長身で男前、才能のあるハリウッドの監督、借金はあってもそれを歯牙にも掛けない気風の良さもある。当然、女にもモテる。それだけ恵まれていながら、特に遠慮する風もなく、それを当然とごく自然に受け容れるだけの素直さの持ち主でもある。ようするにイイ男なのだ。
そして、それが故にウィルソンは「退屈男」的倦怠に苦しめられている。彼によれば文明社会とは金と効率と偽善に毒された場所である。そこは、管理係・経理屋・俗物・差別野郎などという連中(ウィルソンの口癖に従えば「臆病者」)が隅々にまで監視の目を光らせる牢獄なのだ。そこに真の自由など存在しないのだ。そう思う彼がアフリカへゆく。そして魅了される。その純真無垢な未開の大地。計量を許さない過剰なまでの豊穣。野生動物に臆病者はいない。自由はそれを味わう力のある者(彼のような)にのみその美しい姿を見せる。アフリカこそその顕現であり、象こそその徴である。だから象を撃つ。―それが彼の(やや飛躍した)論理なのだ。
ウィルソンの象撃ちに脚本家のヴェリルは不快を隠さない。「犯罪」と決め付け、自分は『恐怖とともに生きる』とまで言う。臆病者でいいと言っているも同然の言葉である。頭の良いスポーツマンである彼は臆病などではない。しかし彼はユダヤ人なのである。彼は「自由」をウィルソンほど無邪気には信頼できない。文明社会の外にある自由とは、あるいは血塗れのホロコーストなのかもしれないではないか。
しかしアングロサクソン系おぼっちゃんのウィルソンにはそんな屈折は理解できない。彼は奥地へ奥地へと進む。そして最後に崩れる。目前の象を撃てばどうなるか?巨きな獣の死骸が転がるだけである。絶対の自由を所有していることを彼は撃って証明したかった。しかしそれと引き換えに手に入るのは死骸を見下ろす孤独な自分である。自分はその無残に耐えられないだろう、と認めるだけの弱い心がイーストウッドにはある。きっと罪の意識から彼は象を憎むようになる。そして殺戮者が誕生する。『地獄の黙示録』のカーツ大佐のいた場所にほんのあと一歩の地点に、その時彼は立っていたのである。
彼が躊躇したせいで黒人ガイドが死ぬ。ウィルソンは激しいショックを受ける。気高いものも触れてしまえば気高いものではなくなる。所詮自分の手は汚れているのだ。自分はもう「象のいない世界」の住人だったのだ…。蹌踉とした足どりでロケ地へ帰りディレクターズ・チェアにへたり込む。何事もなかったかのように撮影は始まる。
そこで撮られている映画がどんな映画なのかは説明されない。しかし、思うにそれはロマンティックな映画なのだ。激しく現実離れした甘い映画なのだ。象を撃ちたいと願う者だけが映画を撮ることができる。しかし本当に撃つ奴にいい映画は撮れない。ウィルソンの夢想は現実の前に打ち砕かれるが、それでいいのである。気高く美しいものはフィクションの殻の中でのみ生きることができる。ウィルソンの永すぎた青春期は終わりを告げる。そしてロマンティシズムという大人の遊びは、美しき逆襲はそこから始まるのだ。
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