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[コメント] ダイ・ハード4.0(2007/米)

ダイ・ハード9.11、或いは危険のインフレーション。9.11以後のアメリカを風刺しているようでいて、マクレーンの好戦的マッチョ主義はかつて無いほど単純明快。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







前作『ダイ・ハード3』に続いてのバディ物だが、今回は、肉体の超人マクレーンと、頭脳の天才ファレル。前作では、本当に運が悪かっただけで巻き込まれてしまったタクシー運転手、という、要はただのオッサンが、二日酔いの落ちぶれ刑事と街中を駆けずり回る羽目になる、という、天才でも超人でもないオッサン二人のバディ物。対して、今度のファレルは重要参考人であり、自身も、アメリカ中を大混乱に陥れる片棒を担いだ責任を感じて、かなり積極的に協力していくようになる。ファレルが、「少しでいいから休ませてくれ」と息を切らしながらも何とかマクレーンに同伴できているせいで、結果的には、天才の頭脳と超人の肉体を兼ね備えたスーパーヒーローの活躍、という体裁になっている。

ファレルを活躍させるより、あのワーロックに、主犯ガブリエルとのハッキング合戦をさせ、太りすぎで体の自由も利かないくせに街のシステムを手足のように使うヲタク野郎、という形でキャラを立たせ、それと対照的にマクレーンは、機械に右往左往させられながらも、運動神経と勘で危機を切り抜ける、という形にしてくれた方が、凸凹コンビ物としては良かったのでは、という気がしないでもない。

多くの場面がブルーやグリーン寄りに統一された色調なのは、『マトリックス』の画面作りを意識してなのだろうか。犯人グループは、街のネットワークを乗っ取るのみならず、アメリカという国に暮らす人々に‘現実’のイメージを与える装置としてのテレビ映像をも乗っ取る。歴代大統領の演説の映像をサンプリングした映像によって宣戦布告を行ない、ホワイトハウスの爆破映像を流して捜査陣をも混乱させる。国を象徴する二つのイメージを乗っ取った訳だ。ここにはマスコミの影響力に向けられた皮肉を感じる。ファレルの台詞にも「メディアは恐怖心で人々を煽っているだけだ」という言葉があった事が思い出される。この辺りにハッカー文化への肩入れ、一般大衆からは隠されている社会の根幹の仕組みを知っているのはハッカーだ、という意識が感じとれもする。

ガブリエルは、元は国の安全を守る立場にいた人間。彼が9.11に備えて提案したシステムは、一方は採用され、もう一方は却下された。前者は、国の資産を守る為のもので、彼はこれを乗っ取って莫大な富を手に入れようと画策する。また後者は、国のネットワークへのハッキングを防ぐ事を企図した提案だった。つまり、犯人に対して国は、犯行の動機となるシステムは採用し、犯行を防ぎ得たかも知れないシステムについては、拒絶した形になる。都市の監視・管理システムが自己免疫疾患を起こしたような事態であり、9.11的なるものに対抗する為のシステムが、却って9.11的状況を発生させるというアイロニーがある。

ファレルに「あんたの英雄的な行為はマネ出来ないよ」と言われたマクレーンは、「英雄なんて、撃たれるだけだ」「‘よくやった、偉い’と背中をポン」「名字すら忘れられる」「他にやってくれる奴がいれば、喜んで代わってもらう」。この台詞は、心ならずも‘テロとの戦争’に英雄として駆り出された者たちの心情を代弁しているように聞こえる。

FBIの副局長ボウマンの役に、アラブ系らしき人物を配した事、更には彼に、国の防衛システムに関する重大な情報が知らされていなかった事など、9.11以降のアメリカに漂う猜疑心に対する批判の意思が垣間見える。犯人サイドも、フランス語を使う者や、主犯の愛人でもある東洋系美人等、多国籍、多人種を強調している印象を受けた。ニューヨークを‘世界の縮図’として描こうとしていたのではないだろうか。

ところでこの映画、押井守の『機動警察パトレイバー2』に似ているように感じたのだが、押井ファンの身贔屓だろうか。都市のネットワークを蹂躙し、‘前線’を都会のど真ん中に引きずり込む、という共通点。尤もこちらはハリウッド流の大味な映画ではあるのだけど。「ガブリエル」という名も押井作品に犬の名として登場している。

それにしても、状況がアメリカ全土を包み込むほどに巨大なものであるせいで、劇中でのマクレーンのぼやきも、悲惨な状況に巻き込まれたオヤジの情けない愚痴ではなく、姿の見えぬ敵に向けた罵声といった観がある。今回は、「なんで俺が?!」という割り切れなさよりも、国を守る使命感が優り、彼の闘いはもはや、悪党との勝負、という規模ではなく、アメリカの内戦を、先頭に立って闘う英雄的行為と化している。彼の家族=娘を救う事と、国を救う事とが何の摩擦も無く一致しているし(そのせいで、犯人たちが人質をとった意味が余り無い)、マクレーンも、何やら喜々として人を殺している(過去のシリーズにもそうした場面が無かった訳ではないが)。「テロとの戦い」の前提となっている「国の為に戦う事は、愛する者の為に戦う事と同じ」、「悪い奴は容赦なく殺ってよし」は、この映画の前提ともなっている。国家の過剰防衛や管理体制をおちょくっているように見えて、根っこは妙に単純素朴。

第一作目の『ダイ・ハード』は、閉鎖された環境で独り闘い抜く、という所に面白味があったのだが、シリーズを重ねるにつれて舞台は拡大の一方。この調子で行ったら最後は『アルマゲドン』になるしかないのでは?アクションの規模が大きくなりすぎて、マクレーンのアナログな工夫による闘いの醍醐味は薄れ、頭脳プレイの方は殆どデジタルな連中に持っていかれてしまっている。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)おーい粗茶[*] けにろん[*]

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