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[コメント] サイボーグでも大丈夫(2006/韓国)

妄想の互換性。同情という接続端子。優しい人間機械論。自転車と電動歯ブラシの、病院ベッドの上でのふいの出逢いのように美しい。全て人間は歯車の一つとして補完し合う事に存在の理由を見出すのだという事。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







自称サイボーグ少女・ヨングンは祖母の入れ歯を装着し、祖母の言葉遣いを真似する事で祖母と一体化。盗癖青年・イルスンは、母が家を出た際に持って行った電動歯ブラシで、「一度失ったら戻ってこない」歯を念入りに磨き続ける。ここに表れた口唇性――が云々、と語るのは解釈に解釈を重ねるような不様で面白味も無い事になりかねないので、回避。

ただ、歯に関して言えば、これがアイデンティティの補完装置として働いているのは見てとれる。ヨングンは自分の歯よりも祖母の歯を填め込もうとし、イルスンは自分の歯を失いはしないかと怯えている。だが、ヨングンのサイボーグ妄想は、他人から自分を分離して、自動機械の自己完結性を目指す欲望の表れであり、イルスンの盗癖は、他人を自分の内に填め込んで、次々に別人格に変じようとする欲望に基づいている。歯に対する執着の仕方と、ちょうど正反対だと言える。

ヨングンは、祖母を連れ去ったホワイトマン達(白衣を着た病院職員達)を抹殺して祖母の許へ行き、祖母の大好きな大根を食べさせてあげる為に、同情心を捨ててしまいたいと思っている。だが、彼女にそれを盗んで欲しいと頼まれるイルスンは、「盗む気になるのは、他人が盗まれるのを嫌がるものだけだ」と答え、一旦は断る。本人が嫌がるもの、とはまさにその人間のアイデンティティを保証する特性を指している筈。ではなぜヨングンの同情心は盗まれたのか?彼女は言っていた、「母親も、叔母夫婦も、祖母に対して同情心が無い」、と。つまり、彼女が同情心を消去したいと願う理由そのものが、他ならぬ同情心なのだ。

同情心を遂に消去したヨングンによる銃撃、大量殺戮シーンが痛快なのは、銃弾の重量感と射出力を感じさせる視聴覚的効果の巧さもさる事ながら、これが完全なる妄想シーンである事が分かりきっている事から来る安心感も働いているからだろう。そこにはまた、充電された機械として、与えられた目的の為だけに機能したいというヨングンの願いの実現そのものが、現実には完全なる無力化に過ぎないという虚しさも漂っている。指先から弾丸を機銃掃射する彼女の顔は虚ろであり、その棒のように伸ばした腕は、木偶の坊のように小刻みに揺れている。

ヨングンが機械にだけシンパシーを覚えるのは、大根ばかり食べたり、孫娘に「お前はネズミの子だ」などと言う祖母が病院に連れ去られた時に、ヨングンが祖母に作ってやったラジオが破壊された事が直接の原因のようだ。その時に祖母が、壊れたラジオから飛び出した部品を舐めた仕種は、ヨングンの「充電」方法となる。この時、祖母への同情と機械への同情が、歯車がかみ合うように連動し、と同時に母親や叔母夫婦、ホワイトマン達に象徴される人間社会との回路の切断、という事態が働いた事も、容易に推測できる所。祖母が、唯一食べていた大根が食べられなくなっているのに、自分がご飯を食べられようか。そうだ、充電すればいいんだ、という訳だ。このラジオという物がちょうど、機械でありながらも、人間の声を届けるのがその「存在の理由」であるという、中間的な存在、機械と人間の接触面である点も、注意しておくべきかも知れない。

ヨングンは、機械には明確な機能、目的、存在の理由がある事を羨む。だが、元機械工でもあったイルスンは、他人の特性を盗んでそれを巧く使いこなす、言わば他人を歯車のように巧く機能させる一種の天才、妄想メカニックとも言うべき存在だ。そして彼はヨングンの為に、メカニックならぬメカドックになる。その事自体、彼がヨングンから同情心を盗んだ事で、彼女に同情したのが原因のようにも思え、彼自身も一つの歯車として機能していたとも言える。彼を含む多数の患者達を歯車として作動する機械とは、舞台である精神病院そのものだ。食堂に、歯車を思わせる水玉模様や渦巻きが壁に描かれていた事を思い出したい。この機械が作動するのは、ヨングンにご飯を食べさせる、という目的の為にである。

イルスンは、ヨングンの拒食(=サイボーグだからご飯を食べたら故障するという妄想)に同調し、他の患者達に伝達を行なう(ハンガーストライキ)。更に、二人の女性患者が、一人の男を巡って、自分のものを盗ませる代わりに恋敵のものも盗んでくれと頼みに来る。この二つ、美しい歌声と飛行術(共に妄想だが)を利用して、ヨングンを歌声で励まし、飛行術で逃がそうとする。ここで、小さくなったヨングンはてんとう虫にベッドごと運ばれて窓の格子の隙間から出て行くが、この、小さくなる、という妄想は、イルスンのものだ。彼自身が「点になって消える」事を恐れているのみならず、映像としても、彼が小人になって会話をする場面があった。そして、ヨングンが祖母を自転車で追って追いつけなかった時に、彼女がサイボーグだと告げた自転車のベルは、てんとう虫の形をしていたのだ。

ヨングンは、冒頭で虚言癖のある女性患者から聞かされた、時計の中で死んだ男のしゃっくりが、その時計の針の音の合間から聞こえてくる、という話に影響されて、時計(=彼女が心を許せる機械の一つ)の前でしゃっくりをする。ヨングンの機械との一体化は、妄想と、それに基いたまじない的な行為によるものだ。しゃっくりという、自然に体が起こす現象と、時計の機械的な運動との、倒錯的な同調。この「倒錯」は、冒頭で女医と話すヨングンの母が、「ヨングンがお婆ちゃんを育てて…いえ、そうじゃなくて」と言葉をあべこべにしてしまう場面にも表れている。つまり、ちょっとした加減で、小さな倒錯は容易に起こるものなのだ。祖母の死後、ヨングンと病院で再会した際にもこの母は、遺灰の袋と食品の調味料とを取り違えそうになる。これは勿論「食」の暗喩でもあるのだろうが。

妄想メカニックとしてのイルスンによる世話は、良い事ばかり起こす訳ではない。あの、バカバカしくも感動的な浮遊シーンの後、ヨングンの祖母が妄想の中に登場するが、生まれた時から腰にゴム紐がついている、という或る患者の妄想のように、祖母は腰に巻かれたゴム紐によって後方に引っ張られている。そして最後は伸びたゴムの収縮によって飛んでいき、イルスンの妄想の如く「点になって消える」のだ。

こうした、観念、妄想の相互交換は、因果関係が必ずしも示されている訳ではない。精神分析学では、医者と患者や、親子間などで、無意識に想念が往き来する、一見テレパシーかと思える転移現象が起こる事が知られているのだが、この映画の場合、一つのメルヘン、ファンタジーとして描かれているのだと考えた方がいいだろう。精神病院というシチュエーションも、観念、妄想が病的に肥大していた方が、象徴、交換物として描き易いという事から要請されたものに思える。

イルスンが「あまりに礼儀正しすぎて、全て悪い事は自分のせいだと思い込んでしまう」と云う患者の癖を盗んだ所、結果的には却って本人が喜んでしまったように、それによって自分が自分であると確認する観念というものは、本人にとって時に重荷でもある。イルスンが、自分を捨てた母親の写真の入ったコンパクトを、「ご飯をエネルギーに換える装置」としてヨングンの体内に埋め込むふりをして、ヨングンが祖母の象徴としていた入れ歯とマウス(=機械×ネズミ)と遺灰を埋めた場所に一緒に埋葬する場面は、自分を苦しめる強迫観念も、誰かの心の歯車に然るべき形で填め込めば、その人を救うものになり得るし、またそうして他者に引き受けてもらう事で、自分自身も救われる、という人間関係論が描かれている。

そうした過程を経て、ヨングンがイルスンの誘導で、「取扱説明書」の手順に沿うように少しずつご飯を口に運ぼうとする際に、食堂の他の患者達までもが連動して動いてしまう場面の、機械的であり人間的なその様子の、可笑しさと優しさ。チャップリンの『モダン・タイムス』で描かれた、凶暴な食事マシーンとの、何という対比。機械に対するイメージが、いかに時代によって変遷するかの一つの表れなのかも知れない。

さて、通常ならばここで、一件落着、とハッピーエンドになりそうなものだが、この映画の本領は更に先、ヨングンが追い求めていた「存在の理由」を、記憶の中の、救急車で連れて行かれる祖母の口の動きから読み取った、と彼女が感じて文字にし、それを更にイルスンと解読してからの、映画のシメの部分にある。その言葉とは「お前は核爆弾。存在の理由は、世界の終わり。10億ボルト必要」。二人は10億ボルトの雷を求めて、大雨と嵐の中、ヨングンが天からの声を求めていつも伸ばしていたアンテナを、空に向ける。

マトリックス』や『ブレードランナー』で印象的に降り注いでいた雨は、おそらくは天の象徴なのだ。そして雷は太古から神と結び付けられていたし、雷がフランケンシュタインに命を注いだあの有名な場面は、宗教性と機械技術が接合された瞬間でもあった筈。この映画の中でも、“聖しこの夜”の替え歌(ここにも倒錯、入れ違えが)で「主の父母が座り、ピョンヤン冷麺を食べる」とヨングンが歌う場面がある。「存在の理由」の究極の充足とは、神のような完全な存在によって与えられるもの。だがそれは同時に、世界の終わりでもある。全て充足してしまったら、それ以上存在する理由が無くなってしまう、というパラドックス。そうして、雷を待ち続けた二人には、嵐の後の静けさと、虹の懸け橋だけが残される。この虹が、機械のケーブルに転じて闇を走るエンディングは、主題を展開し尽くしていて見事。この映画は、シッポまでしっかりと餡子が入っている!

妄想、強迫観念の起動スイッチは、ヨングンは、自らの力で漕ぐ機械=自転車で、イルスンは、機械の力で歯を磨いてもらう電動歯ブラシ。そしてイルスンは、機械工のマスクにネズミの耳を付けた仮面を被っている。二人の相補的関係は、最初から可視化されているのだ。

補完という意味では、話す力を失っていたり、ガラス越しで声が聞こえない他者の唇の動きから、その言葉を読み取る幾つかの場面も思い出される。誤読の可能性を孕みつつも、他人を通す事で初めてメッセージが伝わる、という関係性。

CGを詩的暗喩として用い、しかもそれがエンターテインメントに徹する形で演出されている、という点で、映画に於けるCGの一つの成熟を示す映画。物語の主題同様、生身の人間とデジタルを巧く融合させている。ヨングンとイルスンが口づけをする場面で、ヨングンの足の裏からジェット噴射が出続ける描写など、「サイボーグ」としての彼女の無感動と同時に、内なる心の炎の持続をも表していて、彼女の矛盾した心情の巧みな表現となり得ている。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)DSCH りかちゅ[*]

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