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[コメント] めがね(2007/日)

「さりげなさ」の押し付け、その厭らしさ。この監督の作家性(のようなもの)、隠し味としてならそれなりにいい味を出すのであろうセンスが、こう前面に押し立てられると嫌味にしか感じられないという矛盾。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







何故「めがね」なんだろう、などと問うてみてもそこに答はない。ただそれは暗に仲間とそうでないものを分け隔てる記号として機能しているかのように見えるだけだ。だがその「仲間とそうでないもの」を分け隔てるというあり方自体が、見ている人に(全ての人にではないとは言え)違和感を覚えさせるわけだ。

監督は悪意や敵意でもってこの映画の話を思いついたわけではないと思うが、それにしてはその「さりげなさ」の押し付け具合があまりにも厭らしい。大体「メルシー体操」とか「たそがれる」とか「カキ氷」とか「自転車の後ろ」とか、なんでこんなに障壁を設けなくてはならないのだろう。それらはさりげなく、しかし押し付けがましく提示される価値観の断片として、その価値観の外部にいるものにとっては紛れもなく障壁として機能している。その価値観の内部で生きているらしいもたいまさこ光石研の、声高には言わないまでも明らかに自分達の価値観に疑いもなく自足しきっている態度も閉鎖的で気色が悪い。

不思議なのは、何故これがそのように見えてしまうことにこの映画の監督は気づかなかったのだろうかということだ。『恋は五・七・五!』や『かもめ食堂』などでは気になるほどではなくて、むしろいい隠し味になっていたように思えるユーモアのセンスが、ここでは前面に出てくることによって殊ほどに嫌味たらしい、鬱陶しいものに変わってしまっている。監督が己の趣味を作家性を勘違いして作品の前面に押し出してしまった、その間違いなのかもしれない。

(評価:★2)

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