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[コメント] 接吻 Seppun(2006/日)

これはもはや人間の劇という以上に、人間を介して描かれる、拒絶、媒介、共鳴という情念の相互作用の論理的帰結の劇である。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







勤務先で、理不尽な頼みでも引き受けてしまう「そういう人」として見られている事。旅行先で、自殺でもしそうな女に見られて宿泊を断られた事。他人から「見られる」という事は、不可避的に何らかの評価を下されるという事でもある。京子の場合それは、彼女を世間から断絶させてしまう眼差しとして経験されている。

眼差しに対する、眼差し返すという復讐。それは、世間そのものとも言えるテレビカメラへの、眼差しという形をしたナイフを突き刺すという事。京子は、テレビで目にした秋生の眼差しに、そのナイフを見た。だから彼と共闘しようとした。どんな問いかけにも答えず、ただ不敵に相手を眼差すという闘い。秋生との結婚が知られてマスコミに囲まれた京子がカメラに向ける眼差しの凄まじさ。彼らから京子を救い出した長谷川に対しても、京子は「私たち」という言葉で秋生との一体性を強調する。

だが長谷川もまた、秋生が控訴を拒絶し続けていたのを遂に克服し、それを報告する記者会見の場面で、カメラに向けて、秋生や京子のそれとはまた違った意味で不敵な眼差しを向ける。それは京子に向けられた眼差しであり、同じく京子がテレビでそれを目にしたとはいえ、秋生が自分を取り囲む取材陣のカメラに向けた、不特定の他者への眼差しとは別種のものだ。

劇中、“ハッピー・バースデー・トゥー・ユー”が歌われる場面は二つあるが、どちらとも「ハッピー・バースデー・ディア・○○」という固有名詞が歌われない事で、何か人間全体への呪いのような凄みを孕んでいる。獄中の秋生が、殺害した一家の遺体を椅子に座らせて歌った際の光景を回想する場面は、彼が、恐らくは京子という他者との繋がりを得た事で、改悛の情らしきものを垣間見せはじめる場面。だがその「裏切り」としての転身への制裁として、ハッピー・バースデーと歌う京子に秋生は刺し殺されるのだ。

「二人殺さないと死刑にならないんでしょ!」と叫んで、長谷川をも刺そうとする京子。難を逃れた長谷川は、連行される京子に向かって「君を弁護する!」と宣言するが、彼はこの物語の中で、何者なのか。殺人者に共感する訳ではなく、一人黙したまま死刑になろうとする姿勢に共闘しようとする訳でもない。むしろ、殺人や死刑という二つの「死」に抗う形での共闘を促す者だ。死刑を確定させる数の殺人を為し得なかった京子。彼女への長谷川の共闘の呼びかけ。それを拒む京子。二人の叫びのどちらが勝つかは、五分五分のまま宙吊りで終わる。生と死の拮抗。最後に深紅の文字で現れる「接吻」の二文字は、死や拒絶を介してしか他人と繋がりを持ち得ない京子の、ナイフのひと突きのような接吻の、曖昧かつ鮮烈な意味を観客に突きつける。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)DSCH [*] ぽんしゅう[*]

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