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[コメント] ミスト(2007/米)

恐怖の真相は霧に隠れているが、人の愚かさは明確な構図で描かれる。オリーの語る数々の警句はあまりにもあからさまだけれども、否定したくともしきれない。
dov

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 公平を期すために書くと、私(=この文を書いてる人)はおそらくこの映画の状況で生存する側の人間だ。自分からは何も行動せず、周りに調子を合わせて軋轢を避け、怯えながら指導者達を眺める。そして彼らを無責任に論評する。

 だからかもしれないが、この映画のラストシーンにはブラックコメディを見た時のような笑いがこみ上げた。「それ見ろ!」。それはデヴィッド達の傲慢さを本能的に嗅ぎ取っていたからかもしれない。

「スーパーマーケットは露骨に合衆国のミニチュアとして描かれている」というペンクロフ氏の見通しに私は大賛成で、デヴィッド達は勇敢で知的で行動的な白人、つまり米国を動かしているジョック達を体現しているのだろう。教師達(しかも1人は美女!)という知識階級やスーパの管理職達(しかも1人は射撃の州チャンピオン)とで徒党を組み、気に入らない相手には暴力を振るう。

 デヴィッドは機械工のジムを殴る、アマンダはカーモディを平手打ちする、老教師のアイリーンはカーモディに缶詰を投げる。これらの暴力は、デヴィッドチームに感情移入していればキモチイイ。確かにジムは愚かで、カーモディは狂っている。だがデヴィッドチームが暴力を振るったとき、カーモディはまだ何らの暴力もふるっていない。ジムは「殴るぞ」とは言ったが実際に殴ってはいない。アマンダがカーモディを平手打ちした時「俺が殴るのはダメだが、あんたは良いわけだ」と皮肉を言うのみだ。アイリーンは「不愉快な事を言う人間には石を投げたっていいのよ。聖書にもこう書いてあるでしょう!」と言ったが、そうだろうか? 他者に石を投げる資格のある人間などいない、というのが聖書の教えであったと筆者は思うが。

 時間の流れとともにスーパーの人々は暴力的になってゆくが、その火をくべ続けたのはデヴィッド達ではなかったか?

「しかし、二等兵のジェサップを糾弾して以降のカーモディ派だって、魔女狩りやKKKめいていなかったか?」と貴方は思ったかもしれない。その通り、カーモディ達は決して無辜の被害者などではない。しかしカーモディ達の常軌を逸した憤りに、デヴィッド達の傲慢さが寄与しなかったと言えるだろうか?

 デヴィッドはジムを「君達は分かってないようだが」「あんた達バカか」などと罵り、ジムの謝罪を徹底して無視する。アマンダはジムを「出来ない子」と侮辱する。デヴィッドのグループは他の多くの者達を見下し、倉庫という密室の中で物事を決める。しかもその内容は(デヴィッド達の主観における合理性はあれ)客観的に見て場当たり的で、「誰にも話すな」と言った直後に「皆に話そう」と言う。「何かあったらライトを付けろ」と言っておきながら、怪物が来た時には「ライトを消せ」と言う。スーパーに立てこもるべきと主張したかと思えば薬局に繰り出し、その度に被害者を増やしてゆく。終いには皆の食料を盗んで勝手に外の車に乗り込もうとし(最初に犠牲となった人物は、まさに車に乗り込もうとしてやられたのだが)、反対するカーモディを射殺する。他に方法が無かったなどと嘯くが、結局彼らは人殺しだ。

 カーモディは言う。「自分は特別なつもり。私達をバカにし、神をバカにし、私達の信仰や価値観や生き方を嘲笑う。私達の謙虚さを嗤い、敬虔さを嗤う。私達を踏み付けにして嗤う」デヴィッド達からすれば宛先の間違った怒りとしか思えないだろう。もしその怒りをぶつけるならば、軍の科学者(2等兵ではない)が正当なはずだと。だが案外、カーモディはデヴィッドの人間性を正確に言い当てていたのではないか? デヴィッドはカーモディを「集団自殺を煽り出す」と危険視したが、実際に集団自殺したのはデヴィッドチームの方だった。

 デヴィッド達が車で逃げおおせたのを見て、スーパーに残された者達は何を思っただろうか? 常に頑張り続けた彼らの旅路に祝福あれ? 私ならば「好き勝手やった挙げくとんずらこきやがって!」と思うかもしれない。

 結果論としてカーモディの「外に出るな」という警句は正しかった。のみならず、彼女は事態の本質の一端を見抜いていた節がある。彼女は怪物に襲われ、動けずにいると怪物は離れていった。そう、怪物はそれほど攻撃的でなく、「何もしない」と案外見逃してくれることが作中の端々で示唆されている。店の中に怪物が入って来たのだって、光に誘われた小さい怪物を捕まえようとして、大きな怪物がガラスにぶつかった偶然でしかない。

 ここまでデヴィッド達に対し意地の悪い見方で書いてきたが、そもそも行動的なデヴィッド達が「何もしないことが正解」の世界観に置かれた事自体、彼らにとって不利ではあっただろう。米軍がデヴィッド達の車の”後ろから”来た(つまりデヴィッド達は救いから遠ざかるように動き続けていた)ことなど、意地の悪ささえ感じさせる。しかしデヴィッド達も集団自殺さえ図らなければ救われていたはずで、子供のために店を飛び出した女性が救われていたことなどと併せて、誰の生き方が正しいといった主張は作中注意深く避けられていたように思う。もしかしたら、黒人弁護士のノートンだって生き残ったのかもしれないのだ。

 ノートン。「彼の話なら皆聞いてくれる」とオリーが太鼓判を押すだけの人物だっただけに、ストーリーの序盤で彼がスーパーを出て行ってしまったことは不幸だった。カーモディでなく彼が導いていたら、デヴィッドとの対立も無く皆がスーパーに残ったのでは――少なくとも3すくみの硬直状態で安定したのではと思える。しかし実際の彼はその設定に似合わず、あまり理知的とはいえない態度でスーパーを出て行ったが、これはもう理屈ではなく感情の問題だったのだろう。

 白人だらけの田舎町で、黒人の彼が孤独を感じていたことは描写の端々から窺われる。町の人との会話に溶け込めず、デヴィットと土地の境界線争いをして裁判に負けた。もしかしたら人種差別の経験もあったのかもしれない。そんな中でも彼はデヴィットに歩み寄ろうとしたものの、

 「ボート小屋はぺっちゃんこだよ。ノートンさん家の木が直撃」

 デヴィッドの息子ビリーは無邪気に事実を語ったが、もちろん彼に悪意は無いだろう。だがアイリーン達がこれを「またあの人が」といった風に受け止めることは想像に難くない。狭い町のことだ、噂はすぐに駆け巡るだろう。デヴィッドはノートンの顔色を伺いはすれど、上手くフォローを入れることができなかった。

 それに結局、デヴィッドは内心ノートンを見下していたのだ。怪物についてノートンに話そうと提案するオリーに彼はこう返した「あの偉そうな弁舌屋に?」。  こうした疎外感に自らが突き動かされていたことを、ノートンは自覚していたのだろう。最後に彼はデヴィッドに言い残す「もし怪物がいたときは、私がバカだった」。

 ともあれ、最も優秀であろう移民はスーパーを、あるいは米国を見限り出て行った。この物語は米国の諸階層の分断とディスコミュニケーションを描いているが、それでも最後に米国は勝利する。

 なぜなら米軍は最強だから!

 USA! USA!

 個人的な感傷になるが、この映画の抑制的な音楽や各状況における人々の表情、時におぞましく時に美しい映像はいずれも心に染み入った。化物は少しチープでシーンには時に冗長さを感じたけれども、本作は私の特別なお気に入りだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ぽんしゅう[*]

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