[コメント] ランジェ公爵夫人(2007/仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ランジェ公爵夫人は、名をアントワネットという。一方のアルマン・ド・モンリヴォーは、ナポレオンの親衛隊を率いる男。アントワネットの、「ランジェ公爵」の夫人としての世間体や、キリスト教的道徳心という城壁を、力づくで突き崩そうとするアルマン。ここに旧社会と新社会の、恋愛という私的状況に於ける対決を見てとる事もできるだろう。
映画が始まって間もなくの場面、モンリヴォーが教会で或る曲に表情を一変させ、動揺のあまり取り落とした杖が音高く鳴り、靴音を響かせて退出する、という一連のシーンで既に、静寂と、それを打ち破る音の演出に魅了される。そうした演出は全篇に浸透しており、薪がはぜる音、靴音、扉の閉まる音、音楽、夜の街道に響きわたる馬車の音、といった数々の何げない音たちが、台詞や役者の表情と同じくらいに劇的な要素を成している。
もちろん視覚的な演出も冴えており、修道女テレーズとして観客の前に初登場するアントワネット・ド・ランジェ公爵夫人が、モンリヴォーの前で俯かせた顔が影に隠れている事、彼女が顔を上げてその美貌と表情とが見えるタイミングなど、演技と照明と構図との、計算高いアンサンブルを見る事ができる。
特に気に入ったのは、舞踏会から帰ったモンリヴォーが自邸の扉を叩き、「ランジェ公爵夫人を恋人にする」と言い切ったタイミングで扉が開かれる場面。他人に明かさぬ恋心の独白と、公然たる宣言とを紙一重で同居させる手腕には感心させられる。また、夫人がモンリヴォーの危険な冒険の話を聞きたがりながらも、その話に聞き入りそうになった瞬間に「続きはまた」と一方的に彼を拒絶する行為のサスペンス性や、隣りに座って話すモンリヴォーから視線を逸らした夫人の眼差しが、ショットのフレームを越えて観客の方に熱く突き刺してくるように見える画の強度など、リヴェットの演出は簡潔さと訴求力を兼ね備えている。
「テレーズ」とモンリヴォーの関係は、カーテンや柵によって、空間的に接触しながらも隔絶された画として示されていたのだが、この二人の恋愛に、世間体や宗教が介入していたのと合わせるように、空間演出の面でも、外部との隣接性、外部からの干渉が描かれる箇所が幾つか見られる。まず挙げたいのは、舞踏会で出逢った二人が、初めて並んで座って会話を交わす場面。隣りの部屋に入った二人がショットの右側に消えた後、他の客たちが二人をちらっと覗き見してひそひそ話をする様子を捉えてから再び二人を捉えるカメラワークは、そこが社交界の只中である事を如実に示す。加えて、今にも始まろうとしている音楽会の調音の音が、徐々に高揚していく二人の感情に合わせるようにして高まっていく。その劇的な頂点で、音楽は整然と旋律を奏で始め、夫人は音楽会の催される部屋の扉の向こうへ、つまりはフレーム(ショット)内のフレーム内(扉)へ消える。音楽会=社交界への回帰。
驚かされたのは、煮え切らない夫人の態度に業を煮やしたモンリヴォーが、人を使って彼女を浚った場面、ではなく(この展開にも驚きはしたのだが)、夫人に焼印を押す為の炎が燃える、地獄のようなその場所が、モンリヴォーが夫人を帰すシーンでは、優雅に舞踏会が行なわれる部屋と殆ど隣り合わせのように見える、画のつなぎ方だ。社交界と地獄の隣接関係。
社交界や世間は、夫人が「テレーズ」として身も心も神に捧げる前段階として(「私のものだったのになぜ神に捧げた!」とモンリヴォーは憤る)、二人の恋の発展を阻む。アントワネットが「ランジェ公爵夫人」である事自体が、恋の不可能性なのだ。最大の障壁たるランジェ公爵自身は、神と同じく、生身の存在としてその姿を見せる事は遂にない。彼の生活の痕跡すら見えない。敵は彼そのものではなく、「ランジェ公爵」という名につきまとう諸々の社会的要素なのだ。
夫人の、愛しているような素振りを見せながらの拒絶という、生殺しのような態度に次第に憎しみにさえ駆られるモンリヴォー。夫人は、そんな彼が突きつけた焼印の前で「私に、貴方の物だという印を付けて」と、彼への献身を見せるが、これは本心なのか、決死の演技なのか。モンリヴォーと共に観客の方も「もう何も信じられない」と呟くしかない。
夫人は、何度も出した手紙をことごとく拒絶され、遂に最後の手紙に「今夜八時にお逢いできなければ去ります」と書き送る。ちょうどその時に訪ねてきた友人のバカ話に仏頂面で付き合うモンリヴォー。彼の死にそうな表情と、妙に面白いバカ話のコントラストには、その状況に似つかわしくないのかも知れぬユーモアが感じられるのだが、ここで決定的な役割を果たす、時計のショット。この場面以前にも、時計のショットはさり気なく何度か挿入されていた。その時計が、八時以前を指していると思いきや、実は止まっていた事が判明する瞬間、時計のショットによって刻まれていたそれまでの時間そのものが、崩壊してしまうのだ。
ランジェ公爵夫人の、場面に応じて変わる衣装の色がまた適切なのだが、彼女が遂に親戚一同の前で、世間との対決姿勢をも見せる場面では、やはり純白のドレスをまとっている。白は、色彩演出に敏感な映画では、終焉の色として使われる事が多い。最後にモンリヴォーらが修道院に忍び込もうとするシークェンスでの、海に浮かぶ彼らの船を捉えた、地の果てのようなショットもまた、白一色だった。
焼印事件とそれ以後に夫人が示した愛が本物であった事は、逆説的にも、彼女が全てを神に捧げる事で、モンリヴォーとの現世の愛を絶対的に拒む事で初めて実証されたと言える。二人の回りくどい恋愛と比べて、ランジェ家の執事と女召使いが隠れていちゃつく様子の無邪気さは何と対照的か。
因みに、モンリヴォーの館の前に夫人が馬車を停めているのを見かける通りがかりの男が、その直前に「スピノザは『エチカ』の第三巻で…」と何やら話していたが、この第三巻は「感情の起源及び本性について」と題されている。『エチカ』全体は、偶然的な出会いで個々の対象を愛する愛、反動としての憎悪に転じかねない愛に対し、絶対的で自己完結的な神の愛を論理的に導き出す内容であり、「テレーズ」としての愛を語る夫人の前で苦悩するモンリヴォーの運命を思わせる。
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