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[コメント] ぐるりのこと。(2008/日)

無理しないこと、逃げないこと。
ぐるぐる

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画に込められた希望は、今後100年間でも、日本中の人、人、人に、勇気と感動を与え続けるんじゃないだろか。

30年を1世代とすれば、日本でも、太平洋戦争の致命的な敗戦から2世代が過ぎたことになる。歴史家によれば、国を挙げた戦争に敗れるとその後100年間3世代は文化が廃れるのだと言う。しかし、その国固有の文化と言うものは決して消滅することは無く、花や実どころか葉や幹まで見えなくなっても根は残り、100年後には必ず復活するのだと言う。この映画は、そうしたプロセスが日本でもきちんと進行していることの証左のようにも思える。

日本の映画文化だけのことを言っているのではない。かつて、小津安二郎が「日本の家族の崩壊」というメカニズムの中に個人の尊厳を定位してみせたのに対し、橋口亮輔は、「日本の家族の再生」という萌芽を、吹き付ける雨風から守ってみせる。もちろん、木村多江の熱演、リリー・フランキーの存在感、あるいは磯見俊裕の美術などが、ドラマとしての説得力を産んでいるのではあるけれど。

劇中での法廷シーンを通じて、実際の事件に基づいた「社会の病理」と言えるエッセンスがドラマに流れ込んでくる。この構造にこそ「現代の日本に於ける家族の再生の物語を描く」という監督の志が現れている。単なる個人のドラマではなく、あくまで「反・家族的」とも言える現代社会のメカニズムの支配下でのドラマなのであって、そうした空気のなかで「再生の萌芽」を守ってみせるからこその感動なのだと思う。

その中でも「音羽事件」の被告役である片岡礼子は圧倒的な印象を残す。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。白いソックスを履いた彼女から「Mさん」という仮名で呼ばれる被害者の母親は、ピンヒールに瀟洒なアンクレットをつけて出廷し、加害者である彼女を「あれ」と呼び極刑を求める。しかし、監督は、安易に人を裁こうとはしない。

映画の中では「家族の再生」を試すかのように「幼児の受難」が様々な形で扱われる。法廷で扱われる事件のいくつかは幼児が犠牲者となっているし、あるいは、ちょっとした不注意で子どもを転ばせてしまう。新聞社の先輩記者は交通事故で幼児を失い、それが原因で妻と離婚したと言い、何より、主人公夫婦も生後間もない子どもを亡くしている。そうした「子育て」の問題に直面した母親の心の闇、それに対して周囲にいる人間は何が出来るのだろうか、と問いかけているかのようだ。

おだやかで明るい光に満たされた仏堂に夫婦が並んで寝転んで、鬱病から抜け出した妻が描いた天井画を見上げれば、それは確かに「生き物の味がする」。これはまだインターネットも携帯もそんなに普及していなかった2001年までの物語だったけれど、こんな風に人と人がつながっていけるなら、萌芽もきっと育つだろう。 

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] 浅草12階の幽霊[*]

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