[コメント] 崖の上のポニョ(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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※ジブリ版『ゲド戦記』のネタばれを含みます。未見の方はご注意ください。
最近、日本は工業国としてよりも「漫画」や「アニメ」の国として海外の人々に認知されているようだ。が、「漫画」の歴史は意外と古い。日本人は昔から「鳥獣戯画」(12〜13世紀頃)のような漫画的な絵を好んで描いたし、北斎(18〜19世紀)はわざと遠近法に歪みのある構図を用いて、写実的な西洋絵画にはない独特な効果を浮世絵で表現した。これらに共通する「デフォルメの伝統」は現在の日本のクリエイターにも受け継がれており、日本を代表するアニメーション監督、宮崎駿の作品にもその影響が見て取れる。例えば、彼の代表作『千と千尋の神隠し』(2001)にはカエルの番頭が登場するが、あれなどはまさに「鳥獣戯画」に出てくる擬人化された動物の造形を継ぐものであろう(もっとも、宮崎の創造した愛すべき「生き物」といえば、多くの人が『となりのトトロ』(1988)を挙げるに違いないが)。聞くところによれば、ヨーロッパでは宮崎が場面設定と画面構成を手がけたテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(1974)が放映され、かなり人気を博したという。日本だけでなく海外の人々からも宮崎の作品がこれほどまでに愛される理由は、生き生きとしたアニメーションの技術のみならず、東洋や西洋といった文明の垣根を超えた普遍的なヒューマニズムが彼の作品の根底にしっかり流れているからだと思う。
さて、その宮崎駿の最新作である『崖の上のポニョ』(2008)は、公開と同時に賛否両論を巻き起こした問題作となった。宮崎はその下積み時代の経験もあって、世界観や設定などのディテールに徹底的にこだわるタイプの監督として知られているが、もともとは「絵を動かして命を吹き込む」専門家、すなわちアニメーターの出身であり、脚本に関してはかなり独特なアプローチを採用している。特に最近の作品では、宮崎は物語の結論を用意せずに作品を作り始めてしまう(ジブリのような自分の城を持っていない他の監督には、とてもこんな酔狂な真似はできない)。宮崎によれば、2年以上にも渡る長く苦しい映画制作の途中で、物語が結末を求めて自然と動き出す瞬間が訪れるのだという。彼はこれを「映画は映画になろうとする」と表現しているが、その過程は仏教でいうところの“悟り”を得るための苦行とどこか似ていなくもない。しかし、宮崎がこの方法で映画を作るようになる以前に、同じ職場の盟友であった高畑勲との緊張関係の中で『風の谷のナウシカ』(1984)や『天空の城ラピュタ』(1986)といった傑作を次々と生み出してきた事実を忘れてはならないだろう。練りに練った強靱な脚本という観点からすれば、“理詰めの人”である高畑と“感性の人”である宮崎の間で激しく戦われたであろう緻密な対話が、宮崎の描くダイナミックでイマジネーション溢れる映像に「子供でも分かるが決して平板ではなく、大人も満足させる奥行きをもつ物語」という太い骨格を与えていたように思われる。それらの作品がいかに輝いていたかは、宮崎が苦行僧のように悩み苦しんでひとりで結論を導き出した後の作品群、すなわち複雑な縄が何重にも絡みあって、もはや解くことにも難儀する『もののけ姫』(1997)や『ハウルの動く城』(2004)といった難解で重苦しい作品と比較すれば、一目瞭然であろう。
とはいえ、「赤毛のアン」(1974)『未来少年コナン』(1978)などの珠玉のテレビシリーズや、カルトな人気を誇る劇場映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)の頃から良質のエンターテイメント作品を量産してきたアニメ界の巨人・宮崎駿が、砂上の楼閣のごとく作画枚数を積み上げ、広げすぎた風呂敷を閉じるのに手一杯な印象さえある昨今の自作の出来映えに満足しているとはとても思えない。ところが、最新作の『崖の上のポニョ』は違っていた。強引ながらも、宮崎はアニメーションとはまずダイナミックな動きで観客を魅了することだ、という自らの原点へと立ち返ることにしたようである。前作の『ゲド戦記』(2006)でスタジオジブリは宮崎の息子を起用して無惨な結果に終わったが、“父の否定”に終始した息子の娯楽作品としての未熟さが、眠れる老獅子のエンターテイメント魂を呼び覚ましたのは間違いない。たとえ本作中に、不肖の息子に対する“父からの回答”という私的で不幸な印が刻まれていようとも、また脚本や世界観、設定のディテールが捨て去られていたとしても、海底から海岸そして崖の上へと駆け抜けていく、自然そのもののように凶暴で一途な主人公の真っ直ぐな想いを宮崎は「絆の獲得、あるいは回復へと突き進む、正のダイナミクス」として真正面から捉え、疾走するエンターテイメントとして見事に画面に定着させることに成功した、と感じた。落ちかけていた帆はふたたび掲げられ、宮崎駿は舵を切ったのである。
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