[コメント] イントゥ・ザ・ワイルド(2007/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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クリス(エミール・ハーシュ)が、最後に出逢った老人ロン(ハル・ホルブルック)に丘の上からの景色を見せようと誘う場面では、クリスが眺めているらしい光景は映し出されず、二人の様子をロングで捉えた画しか見えない。その事で、景色を見る場所まで辿り着く体力も無く景色に興味も無い老人とクリスの距離感が感じとれる訳だが、後に二人が丘の上で景色を眺める場面でも、やはり景色は映されず、二人のアップの他は、例によって青空の飛行機雲が映る。劇中で幾度となく挿入されていた、この、青空の飛行機雲のショットは、最後、クリスの妹が彼の遺骨を飛行機に乗って持ち帰ったというナレーションと共に挿入される。文明から必死に逃れようとしていたクリスが旅してきた距離が、飛行機という文明の利器によって軽々と跳び越えられてしまう虚しさ。
ロンとの丘の上の場面のみならず、この映画全体の印象としても、クリスは、広い世界を展望するというよりは、死に場所となった「魔法のバス」、つまりは死という究極の極地に一心に向かっていたように思える。だからこそ、最後の地であるバスのシーンから回想していく形での編集が為されていたのではないか。文明を拒み、一人荒野に出た青年が、バスの中で死ぬという皮肉。恰も、バスに乗って荒野の真ん中にやって来た青年が、バスの故障のせいで死んでしまったかのような光景。
クリスの最初の挫折は、ヘラジカを、ロンから貰った銃(=文明の利器)で殺す事に成功しながらも、蠅(=自然)との格闘に敗れた出来事だろう。肉に侵入する蛆虫に対抗できない人間が、身の丈に合わない獲物を殺した事の報い。この肉を燻製にして保存できていれば、獲物が居なくなった時にも飢えに苦しむ事はなかっただろう。最後まで眼鏡と本を手放さないでいるクリスは、図鑑の知識と、眼前の現実との隔たりに足を取られ、毒草を口にしてしまう。「物事は正しい名で呼ばなければならない」という本の一節を読んだクリスは、野草を探しながら、それをラテン語の学術名で呼んでいた。結局クリスは、楽園のアダムのように好きに事物に名を与える事など出来ず、文明の囚われ人でしかなかった。思えばこの映画自体、「第一章」、「第二章」と、本の章立てのように整然と並べられていた。
家族を拒絶して極地に来た筈のクリスは、「アレクサンダー・スーパートランプ」という偽名を貫いていた事も放棄して、最期の時には本名の「クリストファー・マッカンドレス」の名を記す。そうして、やはり青空を見つめながら死んでいくのだが、彼がカメラに現像されないままのセルフポートレートを残していたという事実もまた、彼の中に、いつの日にかの文明への回帰、という留保があった事を思わせる。
だが、クリスは単に頭でっかちな自然礼賛への報いを受けた青臭い夢想家に過ぎなかったのだろうか。彼の不在によって両親は互いへの愛情を取り戻し、途中で出逢った人々も、クリスの存在によって、絆を求める気持ちを得ている。それは、クリスの不在という苦痛と引き換えのものでもある。全ての絆の拒絶によって死を迎える事になるクリスは、代償として、他の人々に絆への覚醒を与える。旅の途中でクリスが冗談めかしてキリストに擬えられる場面があるが、毒草を食べて青褪めた痩身を晒す彼の姿は、キリスト磔刑図さながらだ。
エンドロール後のロゴが、パラマウントは山、リヴァー・ロード・エンタテインメントは川、と、映画の内容を集約した画になっている偶然も面白い。
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