[コメント] 容疑者Xの献身(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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冒頭、颯爽と登場する、美貌の米村でんじろう先生のような天才物理学者・湯川(福山雅治)の行なう実験は派手で華々しい。だが数学者である石神は、黙々と数式を書き連ねるだけだ。湯川は大学教授の職にあり、講義室は女子学生でいっぱい。石神は背後で騒ぐ高校生たちに背を向け、ひたすら黒板に数式を書き続ける。
そんな二人が大学時代に出会った時、石神が熱心にとり組んでいた四色問題。これは、四色で色分けされた地図という、目に見える対象を数式に還元する問題であり、物理実験のように、数式が、誰の目にも見える現象をもたらすのとは真逆だ。石神が、既にコンピューターによって答えの出されたこの問題について「この解は美しくない」と言うその「美」は、数式を理解する者にのみ理解できるもの。
石神の出勤シーンでは、彼が一人でトボトボと歩く様子を丁寧に追い、その孤独さを痛感させる。マフラーで顔の下半分を隠すように歩く姿は、自分の存在を隠そうとしているかのようにも見える。途中にある、路上生活者たちのビニールシートが更にその光景の寂しさを際立たせるのだが、当の石神が後にその中から一人の犠牲者を選ぶというのも皮肉な話だ。この出勤シーンでベンチに座っていた男は、後で石神が湯川とそこを歩く場面では消えている。石神が、自分にとって何物にも代えがたい存在である靖子を守る為に犠牲にした男は、だが、観客にとっては後になるほど印象的な存在になる。この非対称性があるからこそ、湯川が石神の犯行の中身を靖子(松雪泰子)に告げる行為にも、倫理的な根拠が生まれるわけだ。
通勤シーンで、延々と一人歩く石神の姿を見守っていた観客は、彼の前に現れた靖子の笑顔の持つ意味を一目で了解できる。靖子と言葉を交わしかけた石神は他の客に邪魔されるが、去り際に彼女から「行ってらっしゃい」と明るく声をかけられる。こうした、彼女との距離の匙加減が巧い。
靖子母娘と元夫・富樫慎二(長塚圭史)との間に何があったのかは具体的に描かれていないが、彼の姿を見たときの靖子の狼狽や、慎二が靖子の娘・美里(金澤美穂)にかける下劣な言葉と、着替えをする彼女の居る部屋を勝手に覗く行為、靖子が金を渡すと、文句を言いながらも退散しようとする事など、短いシーンで全てが把握できる。松雪と長塚の演技と演出の賜物だ。松雪は、金澤と向かい合うシーンでも、この若葉マークの役者を巧くリードしていて感心させられる。
靖子との間に、共犯関係という密な関係を持った石神だが、靖子と前に仕事上の付き合いがあったらしい工藤(ダンカン)という男が割り込んでくる。そこから石神はストーカー的な振る舞いをしてみせるのだが、実はそれは彼が靖子の為に身代わりになるという「献身」の準備だ。靖子は「これじゃ、富樫が石神さんに代わっただけじゃない!」と娘に向かって叫ぶが、石神が代わろうとしていたのは、富樫殺害の容疑者という立場だったのだ。石神は、自身が「論理的思考」によって描いた殺人事件の容疑者、数式の未知数「x」に、彼自身を「代入」する。
石神は、他人に介入したり、介入されたりする事を極端に避ける男。だが彼は、自殺しかけていた時に受けた靖子母娘の訪問に始まり、壁の薄いアパートの隣人である靖子たちの生活音という、生活空間への他人の介入に、むしろ救われる事になる。これは、心理的な四色問題だ。隣人は石神のように孤独で味気ない生活を送っていてはならず、幸福な他者として、隣りに居てくれる事が必要なのだ。
ドラマの登場人物として現れる内海(柴咲コウ)は、一見するとこの映画での存在意義が希薄にも思えるが、彼女のような若い女性が常に傍に居る湯川、という、石神との違いを際立たせる効果はあったのではないか。そしてまた、そんな彼女にも湯川の「論理的思考」はついて行き難い所があり、だからこそ、湯川と互いに理解し合える唯一の存在としての石神の印象もより強くなる。
劇中、石神と「遠くから手を振り合う」というコミュニケーションをしているのは、湯川と、靖子の娘・美里だけだ。靖子自身ではなく、その娘という所に、石神と靖子の関係のプラトニックさが感じられる。彼は単に女性としての靖子に恋しているのではなく、慎ましくも仲よく暮らす母娘、という愛情に救われたのだ。彼が自殺しようとしていた時、天井から吊るされた縄で首をくくろうとしていたのだが、これは絞首刑を連想させ、彼が靖子母娘の為に、死刑台にも上ろうとしていたであろう事を想像させる。
数式に「愛」を組み入れても意味を成さない、と内海に言う湯川。その彼が「意味がない」と言う殺人を、愛の為に犯した石神。数学は、現実を捨象した抽象的思考であり、だからこそ、任意の文字や数を代入できる未知数「x」を数式に置く。その、論理的思考の合理性を破壊するものとしての、何物にも代え難い存在への「愛」。石神は「愛」に基づき、靖子が犯した殺人に、自分が犯した殺人を「代入」し、殺された富樫に、任意の男としてのホームレスを「代入」する。石神は、この「代入」の論理性によって成功し、生身の人間を「代入」する非倫理性によって破綻したと言えるだろう。論理を越えた愛に救われた石神は、だが、論理的思考によってしか愛を表現できない男なのだ。
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