[コメント] 引き裂かれたカーテン(1966/米)
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ポール・ニューマンと教授ルドヴィッヒ・ドナートの「数式対決」なんて、マクガフィンここに極まれりといった感もする圧倒的な実質の空洞ぶりで、もはや感動的ですらある。作中人物の行動に対する制約の課し方も荒唐無稽を極め、ただその(制約を課すという)「機能」だけを剥き出しにしている。特に「銃は音が出るから使えない」「刃物は折れてしまって使えない」殺害シーンと、「憲兵に先導されているから速く走れない」「遅すぎると後ろのバスに追いつかれてしまう」バス走行シーンがそう。
したがってこうも云える。ヒッチコックが観客心理を操る仕方こそがまるで数式の扱い方のようだ、と。観客をハラハラドキドキさせる公式やホッと安心させる公式などがあらかじめあり、その公式中の未知の項に具体的な「舞台」や「小道具」などを適当に代入する。本作ではその方法論が、よく云えばきわめて本質的な形で、悪く云えばあまりに型にはまった形で展開されている(型にはまっていると云っても、それはあくまで「ヒッチコック的な型」ですが)。だが、そのような「公式」なるものは、たとえば「ドラマツルギー」という名で物語を創作する者には(あるいは一般にも)広く共有されているものであろう。だから、ヒッチコックは「公式」を使うから優れているのではない。ヒッチコックが世界一上手いのは、その式に具体的に「何を代入するか」、その式を 「どのように変形させて解(=観客心理の操作)を導き出すか」ということにかけてだ。つまりはそれが「演出力」と呼ばれるものである。
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