[コメント] ダウト あるカトリック学校で(2008/米)
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ストリープならではの憑かれたような演技が際立つ校長役の迫力。彼女は、信仰者たるものはそうであるがゆえに、神から遠ざかる行為をも喜んでなすと広言する。若く信念が固まっていないシスター、エイミー・アダムスは、正義のために凝り固まった校長と、進歩的で思いやりも持ち合わせた「理想的な」神父フィリップ・シーモア・ホフマンの間に挟まれることになり苦悩する。ストリープがホフマンを、偽証を行なってまで聖域の秩序から追放してしまうラストに至ってはなおさらだ。
おそらく監督・脚本を手がけたジョン・パトリック・シャンリーの用意した結末に於いては、ホフマンは紛れもない背徳者であるらしい。しかし、それならばこの『ヘアスプレー』の夢が現実となった時代に、何故この物語を提示したかが気になる。ストリープの詰問に対し、黒人少年の決して裕福ではない母親ヴィオラ・デイヴィスは血を吐くような叫びを持って応ずる。
「それを望む子供だっているんです!」
文字通りに解釈すれば、デイヴィスの息子は黒人でゲイという、当時ならば存在を許されない存在である。ホフマンはそんな彼をも救ってやりたかったのではないか、との思いが頭をよぎる。そうした神父を、決して新しいものを受け入れないわけではない(生徒からとり上げたラジオのイヤホンを、彼女は自分でつけてみたりしている)ストリープは、旧態依然としたカトリックの戒律に照らして断罪する。やはり彼女は時代の女であり、現在なお賞賛されるべきではないような気がする。
作品自体をとってみれば、演劇のエッセンスを残した会話劇として賞賛すべき作品である。しかし、戒律の地獄にやはり神の降り立つべき余地はない。ストリープは時代に取り残された哀れな女を熱演した、として評価されるべきであろう。
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