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[コメント] 重力ピエロ(2009/日)

三題噺的なアイデア先行と、言葉遊び的な観念性が、深刻な暴力を些か「ネタ」として利用している印象が強い。「春が、二階から落ちてきた」。この台詞に本作の姿勢とそのダメさが象徴的に表れている。
煽尼采

**ネタバレ注意**
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「春が、二階から落ちてきた」の「春」を季節の春と読むことによって生じる詩情やシュールさ。その上で「春」が、この台詞を吐いている泉水(加瀬亮)の弟(岡田将生)の名であるということ。彼、春が冒頭いきなり集団レイプを食い止める為にバットを振る正義漢ぶりを発揮するのは導入部としてまぁまぁの出だしだが、救われた女子生徒が、ついさっき直面していた事態が事態であるのに動揺がそれほど見られず、何やら余裕をかまして「助けてくれたんだねっ」と甘えた口調で言ってくるのは戯画的にすぎる。ここで春にバットで一撃を食らった彼女が吐きそうな様子で呻く様はなかなかだが。

で、冒頭の台詞の何が本作のダメさを示しているかというと、言葉遊び的だということ。「連続放火」「遺伝子」「グラフィティアート」という三題噺でいっちょ話を作りましょう、といった程度の発想から結果的に「レイプ」というものが出てきたような底の浅さが透けて見える。少年の頃の春が、二段ベッドの上の兄に「レイプって何?」と訊ねるシーンで泉水が「レイプ、レイプ、グレイプ」とヘンな声でダジャレてみせるシーンは、いかにも痛々しさを狙った印象が強くて、吐き気がした。泉水が、おどけた態度を装いながらも必死で「レイプ」という言葉の暴力性や忌まわしさから遠ざかろうとする悲痛さが感じられない軽さには、ちょっと耐え難い嫌悪感を覚える。

この映画が万事に於いて重みも厚みも欠けて見えるのはひとえに演出家の力不足のせいなのだろうが、「連続放火」の動機が弱すぎる脚本も痛い。いや、遺伝上は連続レイプ魔の子である春が「連続」放火犯であるという所に、遺伝子にまつわる忌々しさを漂わせる意図があったのだろうとは推測するが、作品世界内に於ける春自身の個人的な動機が説得力をもって描かれていないのがまた、いかにも言葉遊びというか、暗喩を玩んでいるような軽薄さを感じさせる。理由なき衝動に駆られて火をつけたというのなら、それはそれでちゃんと春の苦悶なり無自覚さなりを描いてくれなければならないだろう。

タイトルが『重力ピエロ』なだけあって、母(鈴木京香)の死に重力が関係しているのかと思ったら、坂道での自動車事故という形でそれなりに仄めかされてはいるものの、画としての「落下」のイメージが弱すぎて、殆ど無関係に感じられる。ラストシークェンスでの回想シーンでは、サーカスのピエロが空中ブランコから落ちないか心配するわが子に両親が語る「あんなに楽しそうなんだから、心配要らない」「たとえ落ちたとしても、大丈夫に決まってる」は、落ちる心配が無いのか、落ちても心配要らないのか曖昧で(まぁ両方なんでしょうけど)、「幸せなら、地球の重力なんて失くしてしまえる」という台詞の「重力」の意味が、それこそ宙に浮いてしまう。

ラストカットで二階から春が落ちるのも、地面に落ちる前にカットを切ることで「重力」を無効化しようとしたのだろうけど、再びの「春が、二階から落ちてきた」の挿入によって、"やっぱ落ちたのか"という失敗感が漂う。そこに暗いニュアンスを込めるような演出でもなさそうなのに。例えば「春が、二階から宙へ舞った」などではいけないのか?文章としての「落ちてきた」のニュアンスは面白いのだが、物語としての落としどころを間違わせかねない言葉を選んでしまったのではないか。原作は未読だが、文章であれば「落ちてきた」とか「重力」とかいった言葉は観念としての関係性しか持たないので自然に受け入れられるものになっているのかもしれない。だが映像化された場合は、ピエロが落ちそうになったり、春が落ちてくる光景は現実的に重力を伴った画、アクションとして目に見えるものになる分、「重力ピエロ」という言葉に込められたニュアンスとの微妙な齟齬を生じさせる。

母が、かつてモデルをしていたという経歴や、春に声をかけた女学生らが「一緒に写真撮ってくれませんか」と頼むこと、春がグラフィティアートを写真に撮る行為、泉水と父(小日向文世)が記念アルバムで春の背後に「夏子さん」を見つけるシーン、葛城(渡部篤郎)がレイプ被害者の写真を撮っていること(泉水の訪問を受けるシーンでは彼をビデオカメラで撮ってモニターに映している)、と、人間の感情や欲望とカメラが絡む辺りは、謎解きそのものにもっと写真を絡ませた方がよかったのではないかと思える。

「夏子さん」が犯人を明かす役割であるのは、春に強烈に憧れる反面、彼女自身はもともと他人の欲望の対象になるような容姿ではなく、全身整形しても春に正体を見破られた上、相手にされないという点で、物語の地獄的状況と無縁な天使的存在であるからだとも解釈できなくはない。とはいえ観客からすれば謎解き自体は、彼女の説明以前に充分推測できるので、単なる確認作業のようなものでしかないのだが(春が子どもの頃から絵の才能がある→グラフィティアート等。尤も、葛城からの才能の遺伝=グラフィティアートは何らかの理由で葛城が描いた、とも推理できるが)。身を隠すようにコソコソと振る舞う吉高由里子が妙にキュートだが、バーで泉水とニアミスするシーンでのクールな印象と違いすぎ、やや違和感。初登場はミステリアスな感じで、という皮相な演出意図がそうさせたのかもしれない。

また、かつての住まいが「浄化」の火に包まれる光景が闇に浮かぶショットが、大して情動を揺さぶらないというのはどういうわけか。葛城がバットで撲殺されるシーンでの、行為の暴力性にも関わらず画に衝撃力も情動もこもらない無重力感に顕著に表れる、重力ピエロな演出力で、罪も痛みも憎しみも重みを得ぬまま何となくイイ話に収束。

本作の父のような、辛いときでもヘラヘラ笑う態度にどこか無抵抗の卑屈さが漂うような奴は決して好きではないのだが、笑顔を絶やさぬことで不幸という重力に抗う彼こそが「重力ピエロ」ということなのだろうか。だが、レイプ後に妻の妊娠が明らかになった際、「生もう」と妙に前向きに告げるシーンはいかがなものか。被害に遭ったのは妻であり、産むのも妻なのに、既に夫の方で結論を出してしまったかのようなあの台詞はいかがなものか?このシーン、レイプ犯の子か自分の子か分からない不安に立ち向かうようにして告げた台詞なのかと思いきや、後でこの父が息子二人に春の出生の秘密を告げるシーンでは、完全に犯人の子という認識でいた様子に見える。疑念や葛藤を経た様子が窺えない。泉水が春と葛城の遺伝子を照合するシーンも、彼の不安を観客が共有できるような持っていき方にはなっていない。

少年時代の春が絵で金賞を獲るシーンでは、展覧会場で、厭味な親子によって母まで嘲られた春は、自らの絵を壁から外して殴りつけて反撃する。この時、「よしなさい」と止めにかかった母自身も、額で相手方の母親に一撃を食らわす。後で夫が「まさかお母さんがあんなことするなんてなぁ」と笑うのだが、この母の行為は、春の暴力が必ずしも遺伝上の父・葛城の影響ではないことを示す為のシーンだったのではないか。尤も、ここは春に額の角で、相手が出血するほど殴らせ、その行為が生まれもっての暴力性によるのか、それとも母への思いの強さゆえのものなのか、観客に考えさせた方が、プロット全体に於いては効果的だったかもしれないが。

泉水が葛城を溺死させようと図るシーンは、その名前(泉水)とのリンクが意図されていたのだろうが、その割には春の用いる「火」との対比として何かが立ち現れるわけでもない。何か色々と半端に終わった観がある。

(評価:★2)

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