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[コメント] アマルフィ 女神の報酬(2009/日)

前作『容疑者Xの献身』で見せた演出の切れ味が今回は鈍い。イタリアという大舞台が手に余ったか。近所の弁当屋に歩いて通う卑近な舞台こそ西谷弘の本領か。単なる観光映画では仕方ないのだが、観光映画になり得ていないのが、実はプロット上も問題あり。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







テレビ・ドラマが精一杯背伸びしながらも映画に届いていない印象。まず出演陣。冒頭のミーティング・シーンでの、上司の冗談に、示し合わせたように一様に笑う様子の薄気味悪さからして不安を覚えるのだが、とにかく登場人物間の関係に厚みが感じられない。きょうびのCGキャラにもあるまじき、存在感のペラペラな戸田恵梨香大塚寧々伊藤淳史など「豪華出演陣」のてきとうな扱いがもたらす、作品の矮小さ。天海祐希は真面目に演じているが、その必死さが、娘を思う母性という奥行きを感じさせず、ただひたすらに爪先立った様子で感情を爆発させているだけに見える。織田裕二とイタリアの刑事との交流も薄味で、これはシーンの構成の仕方なのか、演者二人の存在感の弱さなのか。織田が窓ガラスを叩き割った車に乗って現場に到着した刑事が「ガラスを叩き割るなんて」「寒い」などと不平を言う台詞も、どこか板についていない。ラストの空港での別れのシーンにも、何の情緒も沸かない。福山雅治だけは、悠々とした落ち着きのある存在感が好印象で、彼が織田ともっと絡んでくれたら、映画全体も底上げされたように思う。映画の中心である織田と絡む、天海や戸田やイタリア刑事のキャラクター性、彼らとの間に生まれる化学反応が弱すぎるのだ。

最も気になったのは、いかにも「映画的」なものを狙ったと思しき演出の空振り感だ。蜂型のブローチは、刑事が地図を確認するシーンで目印代わりに使ったり、佐藤浩市が天海に事の真相を告げると同時に共犯を迫る(その光景自体は画面に映らないが)シーンでの、テラスに落ちているブローチを佐藤が拾うカットなど、繰り返し登場する割には映画的小道具としての存在感が宿らない。娘が誘拐されたことを織田から告げられた天海の愕然とした表情のアップがしばらく続くカットも、なぜか取って付けた感じがする。会場に乗り込んだ犯行グループが、バッと服を脱ぎ捨て、中から正装が現れた瞬間に音楽が開始する演出には吹いてしまう。例の蜂型のブローチの発信を目印にして見つけたと思ったら、振り返ったのは少女、の瞬間に音楽がサビに入る辺りは高揚感を覚えかけたのだが。

犯行グループの目的が明かされるシーンで写真を用いる演出は、下手に回想シーンを入れず、モノクロ写真の穏やかな表情に、犯行グループ一人一人の険しい表情を重ねていくシンプルさが効いている。これが良いのは、観客の想像力を巧く刺激してくれるからであり、また、テロリスト=悪の構図の反転により、彼らの痛ましさが際立つからでもある。

本作のひとつの特徴でもある、突然画面が真っ暗になるという、鬼面人を驚かす感のある演出だが、これは、天海が娘をイタリアにつれてきた理由が、難しい目の手術の前に、娘が生まれる前に亡夫と見た景色を見せたかったからだという事情と関係しているように思える。だがイタリアの景色が美しく印象的に撮られていたシーンなど、殆ど皆無と言っていい。所謂「観光映画」になり得ていないのが、むしろ失敗だ。最後に天海が娘と海を見て「奇麗ね」と笑うシーンでさえも、海が奇麗に映っていない!

監視カメラに、映っている筈の人物が映っていないことがストーリーの鍵となることや、佐藤が大臣にカメラを向けさせることを執拗に要求するシーンなど、「見る」ことをテーマとした作品――などと評したら、演出家の思惑通りということになるんだろうか。天海が、二度目の身代金受け渡しに赴くシーンでは、途中でふと見上げると、老婆と目が合う。この短いカットも、「見る」というテーマをチラリと垣間見せているのか何なのか。だがこのカット、画のアングルなのか、被写体との距離なのか何なのか、いかにも「映画っぽさ」を狙ったような気取りが感じられてしまう。こっちが悪意的に見すぎなんだろうか……。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)tarow TOMIMORI

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