[コメント] 西鶴一代女(1952/日)
溝口健二の背中に大きな傷があるのを目撃した者が恐る恐るそのことに触れ本人に聞いたところ「映画とはこれ」と言ったとか言わないとか…。何を言わんとするかと申せば、溝口監督の生き様が映画そのもであるということ。この美術、この芸術を一言で表すことなど無意味なこと。この至宝ともいえる映像、映画を胸に焼き付けることが映画の歴史となるのだ。
溝口映画は大映と決まっているが、この作品は新東宝。当時5社協定など複雑な映画業界を取り巻く環境の中、小津も成瀬も黒澤も作家としての仕事は忘れていなかった。三船敏郎が溝口作品に出ていることも大変珍しい。
映画監督には二通りあって、小津や黒澤のように事細かく指示を出し徹底し、演技もミリ単位で指導するタイプと、一切何も言わない、何もせず、幾度となくダメを出して映像の完成を待つタイプである。後者の典型が溝口健二と言われているが、これも古き良き時代における日本の映画システムのなせる技だ。
しかしプロ集団である。脚本の依田義賢は勝手知ったる仲であろうが、大映溝口をどこまで理解しているスタッフがこの作品に携わっていたことか。溝口映画は溝口を理解する者にしか対応できないとされていた。そのことを考慮しても、当時のスタッフの苦労が伺えるが、それにもましてこの作品の完成度は奇跡としか申せまい。
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