[コメント] ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
本日ヤクルトホール(新橋)の試写会で拝見しました。
感動で呆然としてしまいました。とにかく素晴らしい映画。素晴らしい作品です。
根岸吉太郎作品としての最高傑作。これ以上の作品を今堪能することは事実上不可能でしょう。
まず、この戦後という時代背景。この時代に文学に打ち込む青年とその妻の物語なのですが、戦後という時代ば妙に美しく賑やかに描かれています。
この夫婦の関係が当時のスタンダードだったとすると、やはり男女は単に夫婦とか好きとか嫌いとかいう形式的な関係として作られながらも、といあえず構築された形の中で自らの自意識というかアイデンティティーを生み出そうと努力しているように思えました。
作家の大谷が、妻となる佐知との出会いが衝撃的ですね。恋人のためにマフラーを万引きして、警察に尋問を受けているところに大谷が通りかかります。そして佐知が警察に弁明しているところを見て、彼女に惚れ込んでしまう。いまにも文学的な世界がありますね。哲学がそこにはある。
そして実際に始まった夫婦生活はまもなく崩壊しますが、映画ではっきり表現されていないことは、この間に戦争が終わっているという事実。そして日本は復興するわけで、その中で生まれた羨望とか嫉妬、執着心などが折り重なって、この夫婦関係が映し出されていることを認識しないわけにはゆきません。
結局、いくら文学作家といえども、戦争中の弾圧とか貧しい環境などは、当たり前の世界であって、戦後に日本が開放され、進駐軍が入ってきて、人々が熱気に包まれ経済が復興してゆこうとする時代に崩れる夫婦関係を見事に描いている点が素晴らしいと思いました。
なぜなら、それは今、我々が体感している現実だからです。正に今!
戦争ではなく、経済という見えない圧力の中で、バブル崩壊、リーマンショックなどを経て、格差社会が拡大する正に今。それは戦後の大谷と佐知の関係(経緯)を投影しているものと思われます。
同じ貧しさの中でも生きる者の性。女性としての性。これは本来、人間として必要なものであって、この性をお互いが乗り越えることで、生きることができる。
どうでしょう?今、女性は女性として社会の中で確立された生き方をする。男性は反面、自らの立場を失いつつも、すがるように社会にぶらさがっている。この反転した社会の中の女性がいかに必然として認められるか?この映画は戦後を描きながら、実は太宰治が生まれて100年経過する今を映し出していると思います。
監督の力量も素晴らしいのですが、今回は役者陣の素晴らしいずば抜けた演技力にまずは圧倒されました。
そして映像。セットも見事ですが、各シーンの構図が素晴らしく、ベルイマンと小津安二郎を重ねたようなショット。貧しく古い家の中で会話される夫婦間の距離を遠近法で見事に表現しています。
特に留置所で対話する二人。『天国と地獄』のラストへのアンチテーゼでしょうか。全く抑揚にない会話から、妻佐知の表情に近寄るカメラと松たか子さんの素晴らしい表情。冒頭、夫の作った借金のお詫びをするときに出た泣き笑いの表情などは、ただものではない演技。よくぞこのような演技に挑戦してくれた。素晴らしい演技でした。
根岸監督は素晴らしい構図と華美とも思えるセットを使いながら、派手に陥らず、音楽も最小限にするなど、役者の演技をぎりぎりまで粘って表現させているように思えました。
このような価値ある映画が、戦後ではなく、現代にいきづいてゆくことを期待したいと思いました。
2009/09/29
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